分子科学研究所

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2013/06/10

プレスリリース

光合成酸素発生反応の電子の振舞を量子アルゴリズムにより解明(柳井グループ)

[概要]

自然科学研究機構分子科学研究所の倉重佑輝助教、柳井毅准教授および米国プリンストン大のGarnet Chan教授らの研究グループは、高速量子アルゴリズムを用いることで、光合成酸素発生反応中心であるマンガンクラスタの電子の量子的振る舞い(波動関 数)をほぼ完全解の精度で数値シミュレーションすることに成功しました。
水の分解により酸素を作り出す酸素発生反応のメカニズムは、光合成の最大の謎の一つとして知られています。謎を解く鍵を握るのは反応の活性中心とされるマ ンガンクラスタの働きです。2011年に日本の研究グループによりその鮮明なX線結晶構造が明らかにされたことから、近年、反応メカニズムの解明に向けて 急速な進展をみせています。本研究グループは今回、活性中心のマンガンクラスタ中の電子の振る舞いを量子力学方程式の解として精密に予測しました。またそ の方程式の解から各マンガンイオンの酸化状態など電子の様子に関する基礎的知見を高い信頼性で明らかにしました。各マンガンイオンの酸化状態は、水2分子 から4個の電子を引き抜いて酸素を発生する能力と密接な関係にあり、酸化状態の特定は反応メカニズムの解明に極めて有力な情報を与えます。本研究では、分 子を電子レベルの詳細さでコンピュータ上に再現する理論手法が用いられています。電子運動の再現には量子力学が用いられ、量子の重ね合わせ状態をシミュ レートする計算では100京(10の18乗)個という天文学的な数の自由度の情報処理を実現しました。この高速計算は、本研究グループで開発を行ってきた 基盤的計算技術とソフトウエアにより達成されました。
これらの成果は、光合成酸素発生反応のメカニズム解明に重要な知見をもたらし、今後の光合成研究そして人工光合成の実現に向け重要な指針になることが期待 されます。また、今回用いられた計算手法は、生体中の金属酵素の触媒作用を飛躍的な計算精度で解釈、予測するための強力な基盤技術となるものです。
本研究成果は、2013年6月9日(英国時間18:00)に英国科学雑誌「Nature Chemistry」のオンライン速報版で公開されました。

[研究の背景]

光合成は、主に植物などが太陽光エネルギーを利用し化学エネルギーを作り出す一連のプロセスです。光合成にはいまだ多くの謎が残されていますが、それらを解明することは人工光合成の設計・実用化の糸口になると期待されています。
水を分解し酸素を生成する酸素発生反応は、一連の光合成プロセスの中でも人工的に再現するのが難しい反応だと言われており、植物はこの困難な反応を4個の マンガンイオンからなる「マンガンクラスタ」(図1)を上手く利用する事で実現していると考えられています。マンガンクラスタがどのようにこの反応を進行 させるのか、反応メカニズムの詳細についてはマンガンクラスタの構造が明らかでなかったため理解が遅れていましたが、2011年に岡山大学と大阪市立大学 の研究グループにより鮮明なX線結晶構造が明らかにされたことで、近年、反応メカニズムの解明に向けて急速な進展をみせています。
化学反応の本質は分子中の電子の振る舞いにあります。電子の振る舞いを理論的に正しく予測する事が出来れば、時々刻々と進む化学反応をコンピュータ上で再 現するなど詳細な情報を直接取り出すことが可能です。しかし、マンガンクラスタ中の電子の振る舞いはあまりに複雑であるため、その計算シミュレーションは 従来型アルゴリズムの計算限界を遙かに超える問題であり、新たな発想に基づく量子アルゴリズムが必要とされていました。

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図1.光合成系II酸素発生中心のX線結晶構造.中央にあるのが活性中心のマンガンクラスタ(紫色の球がマンガン原子で赤色の球が酸素原子)

[研究の成果]

本研究では、光合成酸素発生反応の活性中心とされるマンガンクラスタ中の正確な電子の振る舞い、すなわち多電子の 同時確率分布(波動関数)を量子力学方程式から算出しました。今回の計算では、100京(10の18乗)次元という膨大な自由度をもつ多電子の同時確率分 布を扱う必要がありましたが、本研究では、波動関数に内在する量子もつれ構造を利用した高速量子アルゴリズム(非経験的DMRG法)を用いることで高効率 な計算を実現し、多核金属クラスタの波動関数を量子の重ね合わせ状態としてほぼ完全に表す事に初めて成功しました。このような計算精度で金属酵素の触媒反 応における電子過程を記述することは理論家の長年の夢でした。
2011年に発表された最新のX線結晶構造におけるマンガンイオンの酸化状態を、求めた解(波動関数)から同定するため軌道電子占有数の解析を行いました (図2)。結果、X線結晶構造におけるマンガンイオンの酸化数の計算値は、電子スピン共鳴分光やX線吸収発光分光から今まで特定された酸化数とは異なるも のになりました。この酸化数の不一致は、最新のX線結晶構造に修正の必要があることを示唆しています。同時にこれは、X線ダメージによりマンガンクラスタ が構造変化を起こしているという最近の仮説を支持するものです。

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図2.計算対象の酸素発生中心マンガンクラスタの構造(左)と各マンガンイオン酸化状態を表す自然軌道電子占有数の解析(右)

またマンガンイオン酸化数の異なる2つの状態のエネルギーポテンシャル曲線を計算し2 つの状態が交差する点を発見しました(図3の青線と赤線の交点)。金属錯体の高い触媒能を支える特徴の一つとして、状態交差点でポテンシャル曲面を巧みに 乗り換えエネルギーの高い山(反応障壁)を回避しながら効率的に反応を進めることが知られています。一般には、その状態交差はスピン状態に変化が伴う交差 (項間交差)で起こると考えられてきましたが、今回発見した状態交差は、スピン状態を変えることなく交差(円錐交差)する特殊なケースです。項間交差と比 べ円錐交差での状態の乗り移りは格段に効率がよいことからも、マンガンクラスタの持つ高い触媒能を解き明かす上で特に重要な知見と言えます。

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図3.構造変化に沿ったエネルギーポテンシャルの模式図(縦軸:エネルギー,横軸:構造変化).EXAFS/EPR構造モデル(左)とXRD構造モデル(右)の基底状態は異なるマンガンイオン酸化状態にあり中央の円錐交差点で交差している.

本研究では、電子スピン共鳴分光法から得られる磁気的相互作用パラメータを、波動関数 計算からもシミュレートすることが可能となりました。これまで構造の特徴付けは、マンガンイオンの酸化数の違いに基づいた議論にとどまっていましたが、酸 化数より一段と詳細な電子的物性量を用いて、実験と計算とを突き合わして解釈が行えることで、結合長や結合角などの分子構造に関する一段と詳細なレベルの 情報に関してその妥当性を検証することが可能となりました。

今後の展開

本研究で用いられた計算法は、従来のシミュレーション技法とは一線を画すものです。今回新しく提示された酸素発生中心の電子論は、今後の光合成研究 にフィードバックされ、ひいては人工合成を可能とする触媒の開発へとつながる事が期待されます。さらに、計算手法を高度化することにより、実験では捉える ことが難しい水分解反応の電子過程を直接シミュレートすることも可能になります。この基盤的手法は経験則に基づく対症療法的な手法とは異なり、物理法則に のみ基づく計算手法ですので、他の分子系へも有効であると期待できます。

用語解説

多核金属クラスタ:

金属は特定の化学反応の進行を助ける触媒作用を持つことが知られている。多数の金属が集合体(クラスタ)となることで、共同効果に基づく特異な触媒 作用が発現する。生体中では触媒の機能を持つタンパク質は酵素と呼ばれ、人工的に困難な反応に高い選択性・活性を示すことが知られ、その機能解明が急がれ ている。

量子アルゴリズム:

例えば、整数の素因数分解を高速に行うアルゴリズム(計算法)などが知られており、これらは量子コンピュータ(量子力学の「重ね合わせ」という状態 に膨大な情報を持たせ高速処理を行う計算機)を活用できると考えられているアルゴリズムである。暗号処理など、場合分けが無数に増大する問題に対して有効 であると考えられている。

密度行列繰り込み群(DMRG)法:

電子の運動を決める量子力学方程式を高精度に効率よく解く計算法の一つ。複数の電子の振る舞いに関する膨大な自由度を繰り込みにより小さな自由度で 効率よく表現する方法。物理学者Wilsonの繰り込み群法(1982年ノーベル賞)から発展し、固体物理の現象(超伝導など)の解明に用いられている が、近年、化学の理論手法としても発展している。

論文情報

掲載誌 : Nature Chemistry(Nature Publishing Groupの化学領域専門誌)

論文タイトル : “Entangled quantum electronic wavefunctions of the Mn4CaO5 cluster in photosystem II”(量子もつれ状態にある電子波動関数を用いた光合成系IIマンガンクラスタの研究)

著者 : Yuki Kurashige, Garnet Kin-Lic Chan, Takeshi Yanai

掲載日:Published online: 9 June 2013 (18:00 GMT) doi: 10.1038/NCHEM.1677.

研究グループ

本研究は、自然科学研究機構分子科学研究所・柳井グループ(倉重佑輝助教、柳井毅准教授)、米国プリンストン大学化学科Garnet Kin-Lic Chan教授との共同研究として行われました。

研究サポート

本研究は、科学研究費助成事業の基盤研究(B) 25288013、基盤研究(C) 25410030の一環として行われました。

研究に関するお問い合わせ先

倉重 佑輝
理論計算分子科学研究領域、助教
TEL:0564-55-7268 E-mail:kura@ims.ac.jp