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井の中の蛙、大海を知る

伊豆 仁さん
構造分子科学専攻5年(執筆当時)
分子研レターズ 78号 掲載(2018年9月)

「自分の長い人生の中でも、本当に大切なのは、その中のたった一瞬なのかもしれない。」そう思えるような「一瞬」が僕の留学には詰まっていた。

 そうだ、アメリカに行こう

 漠然としたアメリカへの憧れがあった。留学行って、英語が話せるようになったらカッコいいかな、モテるんじゃないかな……。それがアメリカに行きたいと思った最初の理由だった。
 2018年1月より3ヶ月間、僕はアメリカに留学した。行き先は、カリフォルニア工科大学(California Institute of Technology, Caltech)、Theodor Agapie先生の研究室だ。Agapie先生の研究室では、二酸化炭素のような小分子を効率よく変換可能な金属錯体触媒の開発を行っている。また、金属酵素のモデル錯体にも着目しており、酵素の反応メカニズム解明を目指した研究も行っている。
 ロサンゼルス国際空港のゲートを抜けると、そこには見たことのない景色が広がっていた。気温は30℃、カレンダーより早くシャツの袖口をまくって、僕のアツい冬が始まった。周りには日本人は見当たらず、当たり前だが日本語はどこにも存在していなくて、海外に来たのだと実感した。
 「*×◎◆→★△:*。。。」
 理解のできない音の羅列が空間に飛び交う。中学校のときから習ってきた「英語」とは違う、生のEnglish。単語は知っているはずなのに、文法もわかっているはずなのに、何も理解できない。期待に胸を膨らませていた僕は、一瞬にして不安に襲われた。3ヶ月、やっていけるのだろうか。でもきっと大丈夫、僕は日本から来た「お客様」だ。「お客様は神様」だから、きっとAgapie先生の研究室ではチヤホヤしてくれるに違いない。そんな淡い期待を抱き、研究室の門戸を叩いた僕の希望は、一瞬にして打ち砕かれた。
 「君は『お客様』ではない。私の研究室の1人のメンバーとして、1人のケミストとして、ここで3ヶ月研究してもらう。」
 Agapie先生から宣告が下った。非英語話者の僕にもわかるようにゆっくりと、しかし、力強く彼は僕に語った。そこからの毎日は、怒涛のように流れていった。長くいることが正義であるような日本の研究室のスタイルとはまるで異なり、とにかく効率が重視された。限られた時間の中でいかにして最大限の成果を引き出すか。昼間は息をつく暇もなく、ひたすら手を動かして実験に勤しんだ。先生とのディスカッションはほぼ毎日行われた。頭をフル回転させて、出てきた結果を考察し、先生と議論し合った。先生から泉のように湧き出てくるアイディアに感銘を受けながら、慣れない英語に必死に食らいつきながら、ワクワクが止まらなかった。そんな日々をひと月ほど繰り返した頃、研究室に飛び交う「*×◎◆→★△:*。。。」は、少しずつ意味のあるalphabetの塊に変わっていた。
 楽しくもあるが大変な毎日を支えてくれたのは、化学への情熱、友人、そして、ハンバーガーであった。
 Agapie先生の研究室には、化学が大好きなメンバーが国境を超えて集まっていた。彼らの目は真剣で輝いていて、カッコよかった。不安定化合物の合成をしたことがない僕に、自分たちの時間を割いてまで彼らは優しく付き合ってくれた。それにもかかわらず、一体いつやっているのだろうと思うくらい、自分の研究もしっかり進めていた。憧れのアメリカがそこにあった。きっと彼らも最初ここにきたときは今の僕と同じ状況だったのだろう。今の僕が感じている辛さを知っているからこそ、手を差し伸べてくれる。彼らのおかげで、その先にある化学の楽しさに触れることができた。
 毎晩、クタクタになるまで実験した後は友人たちと食事に行った。多様な文化の国だけあって、日本食も含め、様々な国の料理を味わうことができた。中でも僕のお勧めは、ファットバーガー。これぞ、アメリカ!と言わんばかりの、肉肉しいハンバーガー。成人男性の1日分のエネルギーを優に超えていそうなこのハンバーガーが、毎日の原動力であったことは間違いない。
 3月末、僕は再びロサンゼルス国際空港にいた。カバンにたくさんの荷物とお土産と思い出を詰め込んで。3ヶ月前に飛び交っていた「™i&x޷̀۔ܐޗߨݴ」は、今や僕の口からこぼれるようになった。この3ヶ月を思い返しながら、こぼれる涙を抑え、僕は日本への帰路についた。やっと日本に帰ることができるという安堵よりも忘れられない体験をおしむ気持ちで胸がいっぱいであった。今回の留学を通してたくさんのことを学ぶことができ、研究だけではなく今後の人生の糧となるのは間違いないだろう。
 3ヶ月の留学を経て戻った分子研は、かつて僕が見ていた分子研とは違って見えた。3ヶ月の間に分子研が変わってしまったのか?いや、そうではない。僕自身が変わったのだ。心も体も、僕はひと回り大きくなって、ここに帰ってきたのだ。留学の貴重な体験と友人とハンバーガーのおかげで。
 最後に、今回の留学で大変お世話になったAgapie先生及びグループメンバーの皆様、正岡先生、大学院係や総研大基盤総括係の皆様、ADATI氏、アメリカで出会った全ての人とハンバーガーに深く感謝申し上げる。

伊豆 仁さんの略歴

いずひとし
名古屋大学理学部化学科を卒業後、2014年4月に総合研究大学院大学物理科学 研究科 構造分子科学専攻へ入学。生命・錯体分子科学研究領域 正岡グループにて、異種金属多核錯体の酸化還元挙動の調査ならびに各種触媒反応への応用を目標に研究を行っている。