分子科学研究所

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2008/03/24

研究成果

量子化学のハイテクとアルゴリズム開発と大型計算(柳井グループ)

理論計算やシミュレーションが、昨今、第三の先端技術として呼ばれるように、コンピュータを用いた数値的実証は、既知未知の系の物理と化学に深い知見を与える強力な科学的手法として科学の発展に貢献しています。特に近年は極めて多数の高性能演算装置(~10,000個のCPU)を集結するスーパーコンピュータが次世代計算機開発のロードマップに策定されたため、理論計算の研究者もそのトレンドに追随するように、革新的な大型計算機の能力を利用してこれまでに実行できなかったような大規模な科学技術計算を実現しようと躍起になっています。分子研が中心となっている「次世代ナノ統合シミュレーションソフトウェアの研究開発」プロジェクトはその一環です。

 

図1. 次世代計算機開発目標とスパコン性能の推移(出典:理化学研究所)

 

以上のような背景ですが、自然科学の問題は、実は、演算装置の数にものを言わせれば簡単化するほど単純ではありません。自然科学の大規模計算の成功のキーは、新しいアルゴリズム開発と洗練されたソフトウエア技術であり、物理や化学の仕組みを逆手にとって効率よく理論計算を実行できるような新しい手法や理論の開発が必要になってきます。

 

私たちの研究グループでは、分子の電子状態に関する量子力学の方程式をコンピュータで解き、化学現象の本質を記述する理論・計算法(量子化学的手法)の開発を行っています。私たちの計算では、経験パラメータを用いないで、物理の方程式のみに頼って、分子の電子状態をありのままシミュレートするので、非経験、第一原理、ab initio計算などと呼ばれますが、精密である一方、極めて複雑な計算になります。

 

ここでは、私たちのグループの最近の研究成果として、量子化学計算を大幅に効率よくするようなアルゴリズム開発について紹介します(コーネル大学(米)のChan教授との共同研究)[1]。正確な量子計算を行なうには、分子の電子状態を多数の電子配置を用いて表現する必要があります。電子配置は、繰り返し計算により最適化される分子軌道をベースにして記述されるため、SCF(self-consistent field、自己無矛盾場)と呼ばれます。私たちは、多電子配置SCF法の新しい方法論を開発し、これまで取り扱えなかったほど多数の電子配置を用いる飛躍的に大規模な量子化学計算を実現しました。

 

これまで多電子配置SCF計算で扱えるサイズは、最大限で「107~8(数千、数億)個」に限られていました。私たちは、この限界を桁違いに超える1020~30個の電子配置を考慮する方法論を開発しました。ポイントは、多自由度の問題を少自由度で有効に記述することができる「繰り込み群」と呼ばれる高度な物理数学的テクニックを用いたことで、多数の電子配置によって始めて正確に表現される高度な電子相関を、効率よく記述することが可能となりました。

 

今回、新規に開発した大規模多電子配置SCF法を用いて、直鎖共役ポリエン系分子(図2)の電子状態を求めてみました。ポリエン分子は、最も基本的な分子の一種であるのみならず、極めて特異的な電子状態を有しています。特に、π-π*励起状態として、光によって検出可能な状態の近くに直接観測が難しい禁制状態があり、その特定は理論・実験の両面でチャレンジングな問題です。図2のグラフは、直鎖ポリエン(C2nH2n+2, n = 4, 6, 8, 10, 12)における3つの励起状態(2Ag-, 1Bu- 3Ag-)のエネルギーをプロットしたものです。最大の直鎖ポリエンC24H26に対しては、π型の24個の荷電子と荷電子軌道からなる電子配置の組み合わせ(1020~30個)すべてを考慮した計算に相当します。計算の結果から、2Ag-は禁制状態であり、その上に光検出可能な状態1Bu-が存在することがわかりました。この予測は、最新の実験結果[2]とも合致したものです。

 

直鎖ポリエンC12H14 (n=6)

 

 

図2. 多電子配置SCF計算による、直鎖ポリエン(C2nH2n+2, n = 4, 6, 8, 10, 12)における3つの低励起エネルギー(2Ag-, 1Bu- 3Ag-)。2Ag-は最低励起状態で禁制な励起であり、その上に光検出可能な状態1Bu-が存在する。またβカロテンの同じ励起状態のエネルギーを同グラフ上に当てはめて、有効な共役長を逆算した。

 

同手法を用いて、直鎖ポリエンに類似した生体分子のβカロテンのπ-π*励起状態を計算しました。カロテンは、緑黄色野菜や果物に含まれる黄色やオレンジ色の色素としてお馴染みです(図3)。この分子の電子状態の解明は光合成などにおける光収集や電子移動を理解する上で重要ですが、22個もの共役価電子を持つために高精度量子化学計算を行なうことは困難でした。今回、私たちは多電子配置SCF法を用いて、共役電子を完全相関するような計算を実行し、3つの低励起状態を求めることができました。βカロテンは、ポリエンと同様に多数の共役2重結合を有しますので、両分子の関係性を明らかにするのは大変重要です。求めたβカロテンと直鎖ポリエンの励起エネルギーを比較すると、βカロテンの有効な共役長は、9.5~9.7共役の直鎖ポリエンに相当すると評価できました。これは実験[2]の評価9.5とよく一致しています(図2)。

 

図3. βカロテンの化学構造

 

今回紹介した多電子配置SCF法の開発は、大規模な多配置量子化学計算への大きなステップアップと言えます。さらに大きな分子を取り扱えるように拡張することも可能です。ただし、現時点では定量的な精度などにはまだ問題があります。技術改良や理論開発などを通じて実験値を予測できるような手法として確立するよう日々研究開発に励んでいます。

参考論文

[1] D. Ghosh, J. Hachmann, T. Yanai, and G. K. -L. Chan, arXiv:cond-mat 0712.2475v2 (J. Chem. Phys. in press)

[2] K. Onaka, R. Fuji, H. Nagae, M. Kuki, Y. Koyama, and Y. Watanabe, Chem. Phys. Lett. 315, 75 (1999)

関連リンク

柳井グループ研究紹介