分子科学研究所

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2009/03/02

研究成果

内殻電子の目でクラスターを見る(小杉グループ)

1.内殻電子を観測する方法:内殻光電子分光法

分子の中の電子には、化学結合に関わる価電子と関わらない内殻電子があります。価電子は原子同士を結合させる糊の働きをするので一カ所に留まっているわけではありませんが、内殻電子は原子核に強く拘束されています。そのため、内殻電子は分子の違いをほとんど感じないように思われるかも知れませんが、実は内殻電子の束縛エネルギー(内殻電子を分子から引き離すために必要なエネルギー)は分子によって数%シフトします。このシフトは、化学結合によって分子の電荷分布に違いがあるからです(正の原子核は点で近似されますが負の電子は分子全体に分布します)。電荷分布と内殻電子の束縛エネルギーのシフトの関係を実験的、理論的に明らかにし、研究手法を確立したシーグバーンは、1981年にノーベル物理学賞を受賞しました。アインシュタインが、物質から電子が飛び出させるには束縛エネルギー以上の光を照射すればよいことを示して1921年にノーベル物理学賞を受賞してから60年後、分子の電荷分布の理論でポーリングが1954年にノーベル化学賞を受賞してから約30年後のことです。なお、光照射によって物質からたたき出された電子は光電子と呼ばれます。

 

2.内殻電子の励起を観測する方法:シンクロトロン光による内殻励起吸収分光法

電子を分子から引き離す前(イオン化前)にいろんな励起状態が存在することが知られています。そのような研究には、各電子の束縛エネルギーよりも小さなエネルギー領域で光の波長を変化させていって励起を起こすエネルギーを探す必要があります。光電子のように飛び出してくるものがありませんので、波長を変えて光の吸収をスペクトルとして測定することになります。そのためには、波長が連続しているシンクロトロン光(放射光)のように加速器を利用した光源が必須です。シーグバーンがノーベル物理学賞を獲得したころから通常の実験室光源を利用した内殻の光電子分光法は確立し、装置が製品化されて応用の時代になったのですが、入れ替わるようにしてシンクロトロン光を利用した内殻電子の励起状態の研究が始まりました。なお、炭素や窒素や酸素のような化学で重要な元素の内殻電子を励起したりイオン化したりできる波長の光は軟X線と呼ばれ、窒素分子や酸素分子にすぐ吸収されてしまい大気中では扱うことができません。

 

3.内殻電子の励起先:軌道概念

分子の内殻電子の励起状態には、基礎的な観点から興味深い課題がいくつもあります。分子の場合、内殻軌道から分子軌道(通常は価電子が結合性軌道を占めているので、空いている反結合性軌道)への励起状態が基本になります。このような分子軌道は、化学結合・電子構造理論(マリケン、1966年ノーベル化学賞)や化学反応理論(福井・ホフマン、1981年ノーベル化学賞)の指導原理になっていますが、実験で一義的に観測される物理量ではありません。内殻電子の励起の際に分子軌道概念が使えるかどうかは重要な問題です。多電子が同時に励起した状態や、非結合性で原子軌道に類似したリドベルグ軌道への励起状態も観測される可能性があります。このような内殻励起状態の理解には、理論・実験両面からの検討が欠かせません。沢山の研究成果がこの30年間に蓄積されていますが、その間の加速器光源の格段の進歩によって、光の強度が増え、また、光の波長分解能が向上してきており、最近は、より希薄な系、確率がより小さな現象、励起状態のより微細な構造の研究へと発展しています。以下では、そのような最近の研究の中で真空中の希薄な原子や分子のクラスターに関する我々のグループの研究成果を紹介します(発表準備中)。

 

4.原子クラスターの内殻電子の束縛エネルギー:サイト依存性

数個の原子の集合体であるクラスターの表面構造は、物性や化学反応性を理解する上で重要です。クリプトン原子が15個程度集まったクラスターの内殻光電子スペクトルを図1に、内殻励起スペクトルを図2に示しました。基底状態のクリプトン原子では1s~4s軌道、2p~4p軌道、3d軌道が完全に詰まっています。図1の内殻光電子スペクトルは、クリプトンの3d内殻電子がイオン化する過程に対応し、一方、図2の励起スペクトルは3d電子がリドベルグ軌道である5p, 6p軌道に励起する過程に対応します。それぞれ、図3の構造モデルのようにクラスターの表面サイト(コーナー, エッジ, 面)ごとに異なるシフトが確認でき、その比からクラスター構造に関する知見が得られます。

 

 

図1: クリプトン原子(a)、クラスター(c)の3d光電子エネルギー

 

図2: クリプトン3d内殻励起スペクトル

 

図3: 原子クラスターの表面サイトの区別

 

 

5.原子クラスターの内殻励起エネルギー:サイト依存性、状態依存性

図2の内殻励起スペクトルで、単原子に比べて5p軌道では励起エネルギーが増加(青方シフト、不安定化)するのに、6p軌道では減少(赤方シフト、安定化)するという違いに気付きます。リドベルグ電子は空間的に広がっていて、3d電子の抜けた一価のクリプトンイオンに束縛されています。クリプトンイオンは、クラスター中では周りの中性クリプトン原子の分極を誘起し、それにより自身が安定化(赤方シフト)されます。それだけなら図1で観測された内殻光電子のシフトと同じ赤方シフトを示すだけです。

なぜ5p軌道においては、青方シフトしたのでしょうか。この理由として、リドベルグ電子と周りの原子中の電子との間に働く量子力学的反発効果(交換相互作用)を考える必要があります。一価イオンでの5p軌道の平均サイズ(動径分布)は最隣接原子付近なので、電子間の重なりは大きくなります。一方、6p軌道は大きく広がっており最隣接原子周辺にはあまり存在せず、電子間の重なりはかなり小さくなります。電子間の重なりは、パウリの排他原理に則って反発的な交換相互作用を生みます。一価イオンの誘起分極による赤方シフトと交換相互作用による青方シフトの大小関係で励起エネルギーのシフトが決まりますので、クリプトンクラスターにおいては丁度5p軌道から6p軌道に変わるところで、その大小関係が反転したわけです。  以上のように、その他の実験では具体的に知ることが難しい励起先の軌道の広がり具合を、内殻励起エネルギーのシフト量を通じて知ることができます。

 

6.分子クラスターの内殻励起エネルギー:構造依存性

簡単な原子のクラスターと違って、分子のクラスターの構造はあまりわかっておりませんが、分子自身が立体的な構造を持ち、また、分子内で電荷分布していますので、原子のクラスターほどの柔軟性はないと考えられています。ここでは理論予測に基づき、実験結果からクラスター構造に関する情報を得ることに成功した結果について、ピリジン分子を例にして説明します。  ピリジン分子は、ベンゼン環のひとつの炭素を窒素に置き換えた骨格を持つ平面構造をしています。ピリジン分子は窒素を含む中心軸に分極していますので、クラスターになると平面骨格が交互に積み重なる構造をとると考えられていますが、どのように積み重なるのかまでは予測が困難です。典型的な積み重なり方として3候補を図4に示しました。

図5に、反結合性の空軌道であるπ*軌道に窒素の内殻電子を励起したときの励起エネルギーシフトの実験結果を示します。クラスターになると60meVの青方シフトが観測されました。図4のそれぞれの構造に対するシフト量を理論計算によって求めましたが、大きな青方シフトを示すのは右の構造だけです。実際のクラスターでは、図5にあるように内殻励起したピリジンの上下に隣接分子があるので、シフト量は42meVの倍の85meVになって実験値をほぼ再現するようになります。もうひとつ外側にある第二近接分子による影響は無視できることが理論計算からわかりました。図4以外の配向構造もありえますが、それらのシフト量の計算結果は実験を説明しません。

以上のように、実験で具体的に知ることが難しい分子クラスター隣接分子の配向構造を、空の分子軌道への内殻励起エネルギーのシフト(量、符号)を通じて知ることができます。

(小杉信博)

 

 

図4: ピリジン分子間の配向構造候補

 

 

 

 

図5: ピリジン窒素内殻励起(π*軌道への励起)

 

 

図6: ピリジンクラスター構造と励起エネルギーシフト