お知らせ
2011/05/23
研究成果
[研究の背景]
自然界に存在する物質や生体内のタンパク質の中では、同種の金属イオンや化合物が異なった酸化数を持つ酸化状態をとっている場合が数多く存在します。このような状態を一般的に混合原子価状態といい、特にそれが金属錯体である場合は混合原子価錯体と呼ばれます(図1)。例えば黒さび(四酸化三鉄)や顔料のプルシアンブルーなどは、鉄2価と3価を含む混合原子価状態として知られる身近な物質(混合原子価錯体)です。またフェレドキシンと呼ばれる鉄イオウタンパク質も混合原子価状態をとることが知られ、生体内のさまざまなところで電子供与体として働いています。これら混合原子価状態にある物質の特徴のひとつとして、単独では吸収しない光エネルギーを吸収して電子状態が変化したり (電子遷移)、酸化状態の配置が交換、変化(電子移動)したりすることで知られています(図1参照)。その吸収波長が可視領域にある場合その物質は特徴的な色を示します。先に記したプルシアンブルーも、鉄2価イオンと3価イオン間での電子移動が、赤色光や赤外光を吸収して起こるため、青い色を呈する顔料となります。吸収される光の波長は、混合原子価状態の金属イオンや化合物の間の相互作用の強さ(移動のしやすさ)により変化します。逆に言うと、混合原子価状態に由来する光吸収を正しく帰属することができれば、その物質の相互作用の強さを知ることができます。しかし実際に光吸収スペクトルを測定すると様々な遷移による吸収が観測されるため、正しく帰属することはたいへん困難です。混合原子価状態の吸収を正しく帰属できれば、その物質の特性を明らかにするだけでなく、電子移動過程の制御機構に基づく新しい機能を有する混合原子価化合物の開発につながることが期待できます。
図1.(左)混合原子価化合物のイメージ。赤は還元状態、青は酸化状態を示す。物質の中では、このような構造が三次元的に広がっている。(右)フェレドキシン(4Fe-4S型)とその活性部位の構造。
[研究の成果]
サレン錯体(*1)は、合成の容易さやその物性の多様性から光学材料、磁性材料、不斉酸化触媒など広く利用されている錯体です。我々の研究室では、サレン錯体を用いて生体内の金属酵素やJacobsen触媒と呼ばれる不斉エポキシ化触媒(*2)の反応活性種や反応機構の研究を行ってきました。その研究の中で今回我々は、マンガン3価およびニッケル2価サレン錯体の一電子酸化生成物の研究を行いました(図2)。一電子酸化生成物の吸収スペクトル、1H NMR(*3)、2H NMR、EPR(*3)、SQUID(*3)測定を行い、なにが生成したのかを研究しました。その結果、金属イオンは酸化を受けず、配位子のサレンのフェノール基が一電子酸化を受けたマンガン3価およびニッケル2価サレンラジカル錯体を生成していることがわかりました(図2参照)。以前に我々はマンガン4価サレン錯体の合成と構造を報告しましたが(参考文献1)、今回の結果はそれとは異なるものであり、アキシャル位(*4)の配位子の性質によりこれら2つを作り分けることができることを示しました。サレンは分子内に2つのフェノール基を有しているので、そこから生成したサレンラジカル錯体は先に示しました混合原子価状態になります(図2参照)。従って混合原子価状態特有の吸収を示すはずですが、図3の黒線からわかるようにいくつもの吸収ピークが観測され、どれが特有の吸収なのかよくわかりません。そこで混合原子価状態に由来する吸収を正しく帰属するため、図3に示すような非対称なサレン錯体を合成しました。対称的なサレン錯体の合成は容易ですが、非対称サレン錯体の合成はたいへん困難でした。特に合成の時に生成する異性体を分離することがたいへん難しく、分離条件を試行錯誤した結果、目的物を単離することに成功しました。これら非対称サレン錯体を一電子酸化すると、先に記した対称サレン錯体と同様にサレンラジカル錯体を生成しました。図3に示すように、非対称化に伴いマンガン錯体の場合は1270nmにあった吸収が短波長側(左側)に移動していました(nm;ナノメートル、10億分の1メートル)。一方ニッケル錯体では、非対称化に伴い2140nmの吸収ピークが消え、さらに980nmと1950nmの吸収が短波長側(左側)に移動しました。サレン錯体を非対称にすると、混合原子価状態におけるフェノール基とフェノキシラジカル基との間の相互作用が変化し、混合原子価状態に由来する吸収だけが大きく変化することが予想されます。従って、今回の結果は、これらの吸収が混合原子価状態に由来する吸収であることを明らかにしたものといえます。
図2.マンガン3価、ニッケル2価サレン錯体に一電子酸化によるフェノキシラジカルの生成。左のフェノール基(赤)と右のフェノキシラジカル基(青)が混合原子価状態を作っています。
さらにこれらの吸収から、混合原子価状態の相互作用の強さも推定することができます。混合原子価状態の相互作用の強さを示す指針として、一般的によくロビン−デイの分類(Robin-Day classification)が用いられます。この分類では、混合原子価状態を3つのクラスに分類します。クラス1は原子価の変動がまったくない(相互作用がない)系、クラス3は原子価状態がまったく判別できない(相互作用が極めて強い)系、クラス2はクラス1と3の中間状態を表します。この指針を用いて今回のサレンラジカル錯体を分類すると、非対称化で吸収が消失せず移動したマンガン錯体はクラス2に属することがわかりました。一方ニッケル錯体では、非対称化により吸収が消失するものと移動するものが観測されたことから、クラス3に属する状態とクラス2に属する状態が共存している(平衡状態にある)ことがわかりました。すなわち、同じサレン配位子でありながらマンガン錯体とニッケル錯体で混合原子価状態が大きく異なるというたいへん興味深い結果を得ました。このことは、混合原子価間の連結の仕方(金属イオンの種類)によりその物性が変化することを示し、連結する分子(金属イオン)を使って物性を自在に制御できる可能性を示しました。
図3.サレン錯体に非対称性に伴うサレンフェノキシラジカル錯体の吸収スペクトル変化。(上)マンガン錯体、(下)ニッケル錯体。 赤色と青色は非対称なサレン錯体に対応。
[今後の展開]
今回の結果は、サレンに配位する金属イオンによって引き起こされたものですが、「いったい金属イオンがどのように、あるいは金属イオンのなにが混合原子価状態を制御しているのか」という点は今後、明らかにしなければならない課題です。実験化学と理論化学計算を併用しながら、この問題を解決したいと考えます。こうした研究は、混合原子価状態間の相互作用の強さを決定する機構を解明し、混合原子価化合物の特性を生かした材料の分子設計や開発、さらには生体内のタンパク質の機能を分子レベルで根本から理解することに役に立つものと期待されます。
用語解説
1) サレン錯体:2分子のサリチルアルデヒドとエチレンジアミンが脱水縮合してできるイミン化合物。金属イオンと結合するための配位原子を分子内に4つ持つため、さまざまな金属イオンに結合して安定な錯体を生成する。名前の由来は、サリチルアルデヒドの(sal)とエチレンジアミンの(en)をつなぎ合わせて作った総称。サリチルアルデヒドやエチレンジアミンは、様々な置換基を導入することが可能であるため、非常に多くの誘導体や機能性分子を結合したサレン錯体が合成されている。
2) 不斉エポキシ化触媒:アルケン(alkene)の炭素炭素二重結合に酸素原子が挿入されてできる3員環エーテル化合物をエポキシド(epoxide)といい、この化学反応をエポキシ化反応という。通常、過酸化水素、有機過酸などを使って合成されるが、金属錯体を触媒として利用する場合が多々ある。アルケンが非対称な構造であると生成するエポキシドは、不斉炭素を持つことになり光学異性体が存在する。触媒となる金属錯体に工夫をして金属イオン周辺の配位環境を不斉にすると、ある種の光学異性体を選択的に生成するようになる。このような金属錯体を総称して、不斉エポキシ化触媒という。1990年、E.N.Jacobsenらと香月らはそれぞれ独立に、サレンのエチレンジアミン部位にフェニル基を導入して不斉炭素としたマンガン3価サレン錯体が、アルケンのエポキシ化反応において不斉選択性を示すことを報告した。翌年、Jacobsenらはエチレンジアミン部位をシクロヘキシル基にすると不斉選択性が向上することを報告した。現在、このマンガン3価サレン錯体が一般的にJacobsen触媒と呼ばれ、試薬メーカーからも購入できるほど普及している。
3) NMR; 核磁気共鳴(Nuclear Magnetic Resonance)の略。分子を磁場内に置くと、その中の核スピンをもつ原子核は異なったエネルギー準位を持つ状態に分裂する。この状態に電磁波を照射すると、エネルギー準位間の遷移による吸収が起こる。吸収される電磁波の周波数は、エネルギー準位間のエネルギー差によって決まり、原子核を取り巻く電子雲の磁気遮蔽効果によって変化する(化学シフト)。そのため、NMRの情報は分子構造と置き換えることができる。その他、シグナルの線形から分子運動についての情報が得られる。
EPR; 電子常磁性共鳴(Electron Paramagnetic Resonance)。別名電子スピン共鳴(ESR)ともいう。電子スピンをもつ物質(ラジカルや常磁性金属イオン)を磁場内に置くと、NMRと同様に電子スピンによる電磁波の吸収が起こる。吸収する電磁波は、電子が占有する軌道の特性により変化するため、電子構造に関する知見が得られる。
SQUID: 超伝導量子干渉素子(Superconducting Quantum Interference Device)の略称。微少磁場を検出することができるため、物質の磁化率測定に用いられる。
4) アキシャル位:英語のaxial(軸の)に由来する。正八面体構造をとる金属錯体の場合、4つが配位子は同一平面上(エクアトリアル位:英語のequatorial、赤道のに由来)にあり、残りの2つはこの平面と垂直な軸上にある。この軸上の配位座を示す。サレン錯体の場合は、サレン配位子がエクアトリアル位にあると考えると、それ以外の配位子がアキシャル位になる。
■論文情報
掲載誌:Journal of the American Chemical Society(米国化学会誌JACS)
論文タイトル:One-Electron Oxidation of Electronically Diverse Manganese(III) and Nickel(II) Salen Complexes: Transition from Localized to Delocalized Mixed-Valence Ligand Radicals
(対称型、非対称型マンガン3価、ニッケル2価サレン錯体の一電子酸化:混合原子価状態の局在系から非局在系への変動)
著者:Takuya Kurahashi and Hiroshi Fujii
掲載日:Publication Date (Web): May 10, 2011 (Article), DOI: 10.1021/ja2016813
参考文献
1. Takuya Kurahashi, Masahiko Hada, and Hiroshi Fujii J. Am. Chem. Soc. 2009, 131, 12394-12405, DOI: 10.1021/ja904635n
■研究グループ
藤井 浩(ふじい ひろし)
自然科学研究機構・分子科学研究所(生命・錯体分子科学研究領域)&岡崎統合バイオサイエンスセンター(戦略的方法論研究領域)・准教授
http://groups.ims.ac.jp/organization/fujiih_g/
倉橋 拓也(くらはし たくや)
自然科学研究機構・分子科学研究所(生命・錯体分子科学研究領域)・助教