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2019/12/02

プレスリリース

水分子間の水素結合に隠された量子力学的効果の発見! ~結合を強める量子効果と弱める量子効果が織り成す水分子水素結合の特異性~(杉本グループら)

概要

分子科学研究所の、加藤史明大学院生(分子研特別共同利用研究員、京都大学大学院博士課程)、杉本敏樹准教授、京都大学の原田国明大学院生、渡邊一也教授、豊田理化学研究所の松本吉泰フェローの共同研究グループは、水分子間の水素結合の強さ(結合エネルギーの大小)を支配する二種類の『核の量子効果』の存在を発見し,それらの競合で発現する水分子の水素結合の特異性を解明することに成功しました。

本研究成果は、米国物理学会の学会誌『Physics Review Materials』の速報論文(Rapid Communication)として2019年11月27日付(オンライン版)に掲載されました。
 

研究の背景

水素は最も軽い元素です。したがって、水素を介して形成される分子間の水素結合は、その零点振動やトンネル効果といった「核の量子効果」の影響を受けます。その結果、水素結合で凝集した分子系は、分子間の結合の強さ(結合エネルギー)や結合距離、比熱、誘電特性等の様々な物性において顕著な同位体効果を示すことが古くから知られています。およそ100年前から、水素結合で凝集する多くの分子性固体に対して、水素(H)を重水素(D)に置換することで水素結合の距離が長くなり(体積が大きくなり)、かつ結合が弱くなる(結合エネルギーが小さくなる)ことが示されてきました。その一方で、最も典型的な水素結合系であるはずの液体水や氷といった水分子の凝集系では、HをDに置換することで水分子間の水素結合距離が長くなる(体積が大きくなる)にもかかわらず、その結合はむしろ強くなる(結合エネルギーは大きくなる)という特異な現象が見られることが報告されてきました。しかし、液体水や氷の同位体効果に関するこれまでの実験研究では、純軽水(H2O)の場合と純重水(D2O)の場合の物性を単純に比較することが主流であったため、こうした水分子間水素結合の不思議な同位体効果の起源は未解明のままでした。
 

研究の成果

今回、本研究グループは、様々な同位体濃度比をもつ同位体混合氷(H2O+HDO+D2O)の昇華過程を系統的に精査しました。その結果、「純H2O氷に比べ純D2O氷の方が大きな体積を持つ(分子間の結合が長い)にもかかわらず強い水素結合を形成できる」という水分子水素結合の特異な現象の背後に、水分子間の結合エネルギーの大小を支配する二種類の同位体効果が競合して存在していることを見出すことに成功しました。

氷の昇華は、氷の表面において水分子が水素結合を切断して脱離する過程であるため、その活性化エネルギーEdが水素結合の強さ(結合エネルギー)に相当します。本研究グループは、氷試料のH/D混合比(重水素分率xD)を系統的に変化させた同位体混合氷をターゲットとし(図1a)、各水分子 (H2O・HDO・D2O)の脱離速度の温度依存性を同位体種選択的に観測しました。その結果、H2O・HDO・D2O分子それぞれの結合エネルギーが重水素分率に応じて変化する様子を詳細に捉えることに成功しました(図1b)

1202_1.png図1 (a)平衡状態にある同位体混合氷中の同位体比の重水素分率xD依存性、及び(b)H2O・HDO・D2O分子の脱離活性化エネルギーEd(≒結合エネルギー)のxD依存性。図中の矢印は、(1)各xDにおいて水分子のHがDに置き換わるほど結合エネルギーが増大する様子(Ed(H2O) < Ed(HDO) < Ed(D2O);脱離分子種依存性)、及び(2)各水分子種の結合エネルギーがxDと共に減少する様子(Ed(small xD) > Ed(large xD);同位体環境依存性)を示している.


この実験結果は、(1)水素結合の切断を直接担う脱離水分子が重水素化(図2a)されることによって水素結合のエネルギーが増大すること(Ed(H2O) < Ed(HDO) < Ed(D2O)、及び(2)脱離水分子と相互作用する周囲の水分子が重水素化(図2b)されることによって水素結合のエネルギーが減少すること(Ed(small xD) > Ed(large xD)を示唆しています。このような二種類の同位体効果が競合する結果として、H2O氷とD2O氷の水素結合の強さに差異が現れるという知見は、純H2O氷(xD=0)と純D2O氷(xD=1)の性質をただ単純に比較する実験では明らかにすることができないものです。また、我々は、水分子が規則正しく配列した結晶の氷のみならず、構造(分子の配列)が乱れた非晶質の氷の昇華や液体水の蒸発においても類似の同位体効果が存在することを確認しています。これにより、二種類の同位体効果(図2aと図2b)が競合して水素結合の強度が決まる(図1b)という性質は,液体水や結晶氷,非晶質氷などの水分子凝集体に共通の性質である事も見出すことができました。

1202_2.png図2 同位体混合氷の昇華における、脱離活性化エネルギーEdの(a)脱離分子種依存性、及び(2)周囲の同位体環境(重水素分率xD)依存性の模式図。酸素を赤色で示している。水素に関してはHを表す場合は水色で、Dを表す場合は濃青色で示しており、特段HとDを指定しない場合は灰色で示している。


本研究では、さらに遷移状態理論と量子力学的モデル計算を用いて理論的な考察も行いました。その結果、結合エネルギーに関する『1.脱離分子種依存性(図2a)』については、脱離分子の表面吸着状態(始状態)における束縛回転振動の零点エネルギーの違い(図3a)に起因することが分かりました。さらに、『2.同位体環境依存性(図2b)』については、Hを介したO-H・・・O結合とDを介したO-D・・・O結合における相互作用の量子効果でポテンシャルエネルギーが変化する(図3b)ことに起因することが分かりました。

ここで重要となるのは、後者2の効果は水素結合系に普遍的な量子効果ですが、前者1の効果は水分子のように小さく軽い構成要素から成りH体とD体で回転運動のエネルギー(慣性モーメント)が大きく変化する分子においてのみ顕在化する量子効果であるという点です。そのため、大きく重い構成要素からなる多くの水素結合系ではHがDに変わっても分子の回転運動のエネルギー(慣性モーメント)は変化せず、重水素化された際に1の結合エネルギー増大効果が発現しないため、単に2の効果で結合エネルギーが減少します。それに対して、水分子が重水素化されると1の結合エネルギー増大効果が2の結合エネルギー減少効果に勝り、その結果として純H2O氷(xD=0)よりも純D2O氷(xD=1)の方が結合エネルギーが増大するという特異な現象が起きることが分かりました。

1202_3.png図3: 昇華過程(水分子の脱離反応)に関するエネルギー図。(a)脱離分子種依存性(図2a)の起源。始状態(IS: initial state,氷表面)における束縛回転振動の零点エネルギーの違いにより脱離活性化エネルギーに差異が生じる(Ed(H2O)<Ed(HDO)<Ed(D2O))。(b)同位体環境依存性(図2b)の起源。Hを介した結合よりもDを介した結合の方が平衡分子間距離が長く、ポテンシャルエネルギーの底が浅くなる(Ed(small xD) > Ed(large xD))。

 

この研究の意義

本研究により、「水素結合の強さに関する水分子凝集体の特異性は、小さく軽い水分子の回転運動に起因した量子力学的効果によってもたらされている」という新しい視点がもたらされました。一般に、分子間結合を生成・切断する過程は分子の並進運動に基づいて説明されていますが、本成果によって、分子の並進運動だけでなく回転運動も分子間結合の生成・切断過程で重要な役割を果たすことが分かりました。この知見は、水分子やアンモニア分子のような小分子系から巨大な有機分子系に至るまで、水素結合で凝集する物質の構造や物性における量子効果を統一的に理解する重要な礎を与えるものです。

また、分子間結合の強弱は物質の沸点や融点等の熱力学的性質を支配する重要な因子です。そのため、本研究で得られた知見は「分子の慣性モーメント・回転運動に立脚して分子間結合をデザインすることで物質の熱力学的性質を制御する」という分子工学的な応用に繋がる可能性も期待されます。
 

用語解説

同位体:
陽子数は同じであるが中性子数が異なる原子核を有する原子。

同位体効果:
物質や化合物の構成原子を同位体置換した際に起こる、物性や反応性の変化。

零点振動 / 零点振動エネルギー:
量子力学における不確定性原理の為に、束縛状態にある原子は絶対零度においても静止しない様子を指す。この振動エネルギーを零点エネルギーという。

トンネル効果:
粒子が、自身の運動エネルギーよりも大きなエネルギーの壁を一定の確率で通り越すという現象。粒子の波動性に基づく量子力学的な効果である。

核の量子効果:
原子核に起因した量子力学的効果の総称であり、特に水素のような軽い原子核(陽子)から成る原子を含む系において顕著になる。

水素結合:
酸素や窒素原子のような電気陰性度(原子核が電子を引き寄せる力)の高い2つの原子が、水素原子を介して結び付く化学結合。

活性化エネルギー:
分子が実際に反応を起こす際に必要となるエネルギー。ここでは、脱離反応を誘起するために必要なエネルギーを指す。

遷移状態理論:
化学反応の始状態と遷移状態(反応が起こる際に必ず通過するエネルギー的に不安定な状態)の間に平衡を仮定し、反応速度を予測する理論。

束縛回転振動:
気体中の分子は自由な回転を許されているが、固体中や表面に吸着した条件下では、これが妨げられる。束縛回転振動とは、その結果生じる振動(秤動)運動を指す。
 

論文情報

掲載誌:Physical Review Materials

論文タイトル:“Unveiling two deuteration effects on hydrogen-bond breaking process of water isotopomers”
(「水分子及びその同位体分子の水素結合切断過程に発現する二種類の重水素化効果の解明」)

著者:Fumiaki Kato, Toshiki Sugimoto, Kuniaki Harada, Kazuya Watanabe, Yoshiyasu Matsumoto

掲載日:2019年11月27日(オンライン公開)
DOI:10.1103/PhysRevMaterials.3.112001
 

研究グループ

分子科学研究所
京都大学
豊田理化学研究所
 

研究サポート

文部科学省科学研究費補助金 新学術研究(公募研究) 16H00937 (杉本敏樹)
日本学術振興会科学研究費補助金 16H06029, 17H06087, 19H00865 (杉本敏樹)
JSTさきがけ JPMJPR16S7 (杉本敏樹)
日本学術振興会科学研究費補助金 16H02249 (松本吉泰)
日本学術振興会特別研究員奨励費 17J08362 (加藤史明)
 

研究に関するお問い合わせ先

杉本敏樹 (すぎもととしき)
分子科学研究所 准教授
TEL: 0564-55-7287 / FAX: 0564- 55-7287
E-mail:toshiki-sugimoto_at_ims.ac.jp(_at_は@に変換してください)
 

報道担当

自然科学研究機構・分子科学研究所 研究力強化戦略室 広報担当
TEL:0564-55-7209 FAX:0564-55-7374
E-mail: press_at_ims.ac.jp(_at_は@に変換してください)