お知らせ
2024/09/10
プレスリリース
量子コンピューティングをはじめとする量子技術の1つである量子センシングは、量子ビットの量子力学的な性質を利用してセンシングを行う技術であり、従来に比べて高感度・高分解能なセンシングが可能になると期待されています。その中でも、分子中の電子スピンを量子ビットとして用いる手法は、分子の有する高い構造の自由度や均一性から盛んに研究されています。しかし、分子性量子ビットの量子センシングに向けた検討はその多くが極低温下に限定されており、また量子ビットを用いて化学物質のセンシングを行う戦略に関しては例が少なく、対応可能な化学種も限られていました。
今回、九州大学大学院工学研究院の山内朗生大学院生、楊井伸浩准教授(現 東京大学大学院理学系研究科 教授)らの研究グループは、分子科学研究所機器センターの浅田瑞枝主任技術員、中村敏和チームリーダー、名古屋大学大学院工学研究科のPirillo Jenny特任助教、同大学未来社会創造機構脱炭素社会創造センターの土方優特任准教授らと共同して、室温下で様々な分子を識別可能な量子センシング手法の提案を行いました。
本研究では、ゲスト分子種に応じて構造を変化させる特徴を有するMOFと室温下で利用可能な三重項量子ビットを組み合わせることで、導入するゲスト分子の種類に応じて量子ビットの量子重ね合わせ状態の保持時間を変化させる手法を開発しました。今回の成果により、MOFと量子ビットの組み合わせの多様さを活かしたケミカル量子センサーの実現が期待されます。
本研究成果は、2024年9月2日(現地時間) にNature Researchの国際学術誌「Nature Communications」にオンライン掲載されました。
(参考図)MOFのゲスト吸着に伴う構造変化とそれによる分子性三重項量子ビットの応答
研究者らからひとこと:「量子の時代に化学はどのような貢献が出来るのか」という問いが我々の命題です。従来研究されてきた量子ビットとは一線を画す、分子性量子ビットならではの特徴を見出し、生命・医療分野にインパクトをもたらしうる研究を展開していきます。
近年、量子コンピューティングや量子センシングといった量子技術の研究が世界中で盛んに進められています。これらの技術の基本的な構成要素が量子ビットであり、量子センシングはその量子力学的な性質を利用したセンシング手法です。特定の量子状態が外部環境に極めて敏感に応答するという特徴を活かし、従来に比べて高い感度や分解能でのセンシングの実現が期待されています。代表的な量子センサーの1つであるダイヤモンド中の窒素-空孔欠陥中心(NVセンター)は温度や磁場といった物理パラメータを高感度に検出可能といった利点を有しますが、センサー部位がダイヤモンド中の奥深くに存在するため、分子やイオンといった化学種のセンシングが難しく、またその欠陥構造の制御が困難という課題がありました。これに対し、分子の電子スピンを用いた分子性量子ビットは検出対象の化学種と近接して相互作用でき、化学修飾によって構造を厳密に制御可能です。しかし、量子ビットとして利用可能なスピンの割合(スピン偏極率*3)が室温では通常極めて小さい(~0.1 %)ため、高いスピン偏極率が得られる極低温下の応用がほとんどであり、量子ビットを用いて室温で様々な化学物質のセンシングが行える手法は開発されていませんでした。
今回の研究では、室温でも利用可能な分子性量子ビットである光励起三重項電子スピン*4と、多孔性金属錯体(MOF)と呼ばれるナノ多孔性材料を用いて、室温下で様々な分子を識別するための量子センシング手法の提案を行いました。
図1 本研究の模式図。ゲストの吸着によって構造を変化させるMOF中に分子性三重項量子ビットを導入し、ゲストを吸着させた際の量子重ね合わせ状態の保持時間(T2)の変化を測定する。
これまでにもMOFを用いて室温下で量子センシングを行った例は報告されていますが、その報告ではスピン偏極していない通常の電子スピンが用いられており、また検出可能な化学種も特定のイオンに限定されていました。これに対し、本研究では、光を照射することにより有機分子の三重項状態に生じるスピン偏極した電子スピンに着目しました(図1)。これをゲスト特異的に柔軟に構造を変化させることが可能なMOF(MIL-53)中に導入することで、高いスピン偏極率と様々なゲストに対する応答を両立することに成功しました(図1)。
MOF中に様々なゲストを導入し、その量子重ね合わせ状態の保持時間(T2)をパルス電子スピン共鳴(ESR)*5により測定したところ、導入するゲストごとに異なったT2が得られました(図2a)。通常、ゲストが導入されると量子ビット周辺の環境にゲスト由来のノイズが生じるため、T2は短くなる傾向が見られます。一方、今回の報告では複数のゲストにおいてT2がゲスト導入前に比べ長くなる挙動が見られ、特に、一部のゲストでは1マイクロ秒程度と、室温では非常に長いT2が得られました。この挙動について解明するため、ゲスト分子がMOF細孔内部で占有している体積の割合を調べたところ、体積占有率が高いものほどT2が長くなっていることが分かりました(図2c)。分子動力学計算による量子ビットの運動のシミュレーションの結果から、体積占有率が高い状況では量子ビットの運動が抑えられており、その結果、量子的重ね合わせ状態を失わせる運動が抑制され、T2が増加したと示唆されました。
図2 (a) 各ゲストを導入した際のT2測定結果。MOF中に量子ビット以外の分子が存在しない空の状態(Empty)に比べ、ゲストの導入によってT2が長くなる挙動が見られた。
(b) 本研究でMOF中に導入したゲスト分子の構造。
(c) 各ゲスト分子を導入した際のMOF細孔内の体積占有率に対するT2のプロット。占有率が高いほどT2が長くなる傾向が見られた。
本研究により、量子ビットの運動性の制御が室温での量子センシングにおける重要な要素であることが明らかになりました。また、量子重ね合わせ状態を長時間維持することは量子センシングのみならず、量子技術全体として重要であり、今回得られた知見は分子性量子ビットを用いた量子技術において大きな一歩になると考えられます。今後は様々なMOFと三重項量子ビットを組み合わせた系を複数並べ、その応答を基に化学物質を認識するといったケミカル量子センシングの実現が期待されます。
(※1) 量子ビット
0と1で表される古典的なビットの概念をエネルギーの異なる2準位の量子系へと拡張したものであり、その例として電子スピンが該当します。
(※2) 量子センシング
量子ビットの量子力学的な性質を利用してセンシングを行う技術で、量子重ね合わせ状態が外部環境に極めて敏感であることから、従来に比べて高感度・高分解能なセンシングが可能になると期待されています。
(※3) スピン偏極率
分裂したエネルギー準位のうち1つの準位にスピンが多く占有している状態(スピンの向きが揃った状態)のことをスピン偏極した状態と言います。測定により得られる信号強度はスピンの偏極度合いに比例するため、量子技術への応用には大きなスピン偏極が求められます。
(※4) 三重項電子スピン
2つのスピンの向きが同じで、スピンが打ち消し合っている状態を一重項状態、逆向きでスピンが打ち消されていない状態を三重項状態と呼びます。ペンタセンやポルフィリンといった特定の有機分子を光励起すると、一重項励起状態(S1)から三重項状態(T1)へのスピン選択的な系間交差によって、三重項状態にスピン偏極した電子スピンを生じ、室温でも量子ビットとして利用可能と期待されます。
(※5) パルス電子スピン共鳴(ESR)
ESRは磁場中でスピンの向きに応じてエネルギー分裂した電子スピンに対しマイクロ波を照射することにより、電子スピンに関する情報を得る手法です。パルスESR法では、マイクロ波パルスをサンプルに対し照射することにより、量子重ね合わせ状態の保持時間(T2)といった、電子スピンの量子ビットとしての特性を評価することができます。
図3 古典ビットと量子ビットの概略図。量子ビットは2状態の重ね合わせ状態も取ることができ、ここに生じる量子的な性質を利用することにより、様々な応用が可能となる。
図4 通常の電子スピンを用いた分子量子ビットと光励起三重項量子ビットの比較。通常の電子スピンを用いた量子ビットは全体の0.1%程度のスピンしか利用できないのに対し、三重項電子スピンを用いる場合は70~80%程度と多くのスピンが利用可能で、信号強度の増強が期待できる。
本研究の一部は、JST 創発的研究支援事業(JPMJFR201Y、研究課題名:MRI・NMRの未来を担う「トリプレット超核偏極の材料化学」)、JST CREST(JPMJCR23I6、研究課題名:スピン超偏極分子材料の創出に基づく量子医療診断)、日本学術振興会 科学研究費(JP20H02713, JP22K19051, JP23H00304, JP23KJ1694)、JST 次世代研究者挑戦的研究プログラム(JPMJSP2136)、積⽔化学 ⾃然に学ぶものづくり研究助成プログラムからの支援により行われました。本研究の一部は文部科学省「マテリアル先端リサーチインフラ」事業 (課題番号JPMXP09S21MS0038) の支援を受け自然科学研究機構 分子科学研究所で実施されました。
掲載誌:Nature Communications
タイトル:Modulation of triplet quantum coherence by guest-induced structural changes in a flexible metal-organic framework
(柔軟な多孔性金属錯体中のゲスト依存的な構造変化による三重項量子コヒーレンスの変調)
著者名:山内朗生・藤原才也・君塚信夫・浅田瑞枝・藤原基靖・中村敏和・Pirillo Jenny・土方優・楊井伸浩
DOI:10.1038/s41467-024-51715-w
<研究に関すること>
東京大学 大学院理学系研究科 化学専攻 教授 楊井 伸浩(ヤナイ ノブヒロ)
TEL:03-5841-8061
Mail:yanai@chem.s.u-tokyo.ac.jp
<報道に関すること>
九州大学 広報課
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自然科学研究機構 分子科学研究所 研究力強化戦略室 広報担当
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東海国立大学機構 名古屋大学 広報課
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東京大学 大学院理学系研究科・理学部 広報室
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