お知らせ
2025/05/21
プレスリリース
分子科学研究所(以下、分子研)/総合研究大学院大学(以下、総研大)の熊谷崇准教授、Fritz Haber Institute of the Max Planck Society(ドイツ、以下FHI)の塩足亮隼博士、Max Planck Institute for Structure and Dynamic of Matter(ドイツ、以下MPSD)のMariana Rossi博士が率いる国際研究チームは、杉本敏樹准教授(分子研/総研大)、Shuyi Liu博士(FHI)、Martin Wolf教授(FHI)、George Trenins博士(MPSD)との共同研究成果として、低温・超高真空環境において銀ナノ探針と銀単結晶基板の間に形成されるピコキャビティ(注1)内に物理吸着(注2)によって閉じ込めた水素分子(H2)および重水素分子(D2)を探針増強ラマン分光(TERS)(注3)によって単一分子レベルで観測することに成功しました。
近年、ナノサイエンスやナノテクノロジーの分野で100億分の1メートルオーダーの極微空間である「ピコキャビティ」に閉じ込めた光(近接場)(注4)と物質との相互作用が注目され、原子スケールの精密計測や量子光技術の基盤としてその研究が急速に進展しています。本研究では、最も単純な分子である水素分子をピコキャビティに閉じ込め、高精度のTERS測定を行うことでその振動・回転モードを分光計測しました。その結果、ピコキャビティ内における水素分子の構造とダイナミクスを単一分子レベルで解明することに成功しました。特に、銀ナノ探針と銀単結晶基板の間隔(ギャップ距離)を精密に制御し、分子との極めて小さな相互作用を段階的に変化させたところ、D2に比べてH2の振動モードだけが大きく変化することを発見しました。このようなピコキャビティにおける極微な現象は、従来の空間平均的なラマン分光やその他の振動分光法で観測することはできず、今回の単一分子レベルの精密分光によって初めて実証されました。この非自明な同位体効果の起源を探るため、密度汎関数理論(DFT)(注5)および経路積分分子動力学法(PIMD)(注6)による詳細な理論解析を行った結果、非常に軽量な水素の原子核が低温において量子的に揺らぎ、空間的に広がっている「量子膨張効果」が、この違いの主な要因であることを明らかにしました。
本成果は、極限的に狭い空間における光と分子の相互作用や、吸着分子の量子ダイナミクスに関する理解を深めるものです。原子スケールの精密分子分光は、水素貯蔵材料や触媒反応などのエネルギー関連材料の機能解析や、単一分子の量子制御の開発など、次世代のナノ計測や量子技術への応用展開が期待されます。
本研究成果は、国際学術誌『Physical Review Letters』に、2025年5月20日付でオンライン掲載されました。
ピコキャビティにおける水素分子のラマン散乱のイメージ図
近年、光を原子スケールの極めて小さな空間に閉じ込めることで、光と物質が強く相互作用する現象が注目されています。このような極微空間は「ピコキャビティ」と呼ばれ、これを活用することで、従来の技術では不可能だった原子スケールでの精密分光や量子光技術が可能になると期待されています。中でも、超高真空・低温環境下における探針増強近接場分光法(注7)は、ピコキャビティ内の近接場光を精密に制御することで、単一原子・分子レベルの極微分光を可能にする技術として注目されています。
しかしながら、このような極微空間で、水素分子のようにサイズが小さく、ファンデルワールス相互作用(注8)が支配的となる系の計測は、極めて困難とされてきました。
実験には、超高真空下で −263 ℃(10 K)に冷却して水素分子を吸着させた銀単結晶基板と、先端部に可視光レーザーを照射した同じ温度の銀探針を用いました。この探針は1000万分の1メートル(ナノメートル)スケールで滑らかかつ鋭く加工されており、銀ナノ探針と呼ばれます。基板表面に探針を近づけて、その隙間(ギャップ)に存在する水素分子から散乱される光を分光器で読み取ってラマン分光(TERS)を行いました。図1は、H2を吸着させた表面およびD2を吸着させた表面を用いて得られたTERSスペクトルを示しており、それぞれの分子に固有の回転および振動に由来するラマンピークが明瞭に観測されています。
図1 (a)ピコキャビティに閉じ込められたH2およびD2のTERSスペクトル。各スペクトルには回転(rot)、振動(vib)、およびそれらの結合モード(vib + rot)に由来するラマンピークが明瞭に観測されている。(b)(a)で観測されたラマンピークに対応する、水素分子の回転および振動のエネルギー準位の遷移を示す模式図。
図2aは、探針先端と基板表面との距離(ギャップ距離)をピコメートルスケールで精密に制御しながら測定したD2のTERSスペクトルを示しています。わずかなギャップ距離の変化により、スペクトルに顕著な変化が生じることが観測されました。この実験から、ギャップ距離が小さいほどTERS信号が急峻に増強されることが判明しました(図2b)。これは、ピコキャビティにおける近接場がピコメートルスケールで強く局在化しているという特性に起因しています。図2cに示す理論計算シミュレーションから、銀ナノ探針の先端に存在する原子スケールの構造によって形成された近接場が、ギャップ内に閉じ込められた分子のラマン信号を顕著に増強していることが示されました。
図2 (a)探針と基板表面との間のギャップ距離(縦軸)を変化させながら測定したD₂のTERSスペクトル。横軸はラマンシフト、強度はカラースケールで表している。(b)そのスペクトルで観測された回転、振動、プラズモンモードに対応するラマンピーク強度(縦軸、(a)のカラースケールに相当)をギャップ距離(横軸)に対してプロットしたグラフ。ギャップ距離が小さくなるにつれて、各ピーク強度が急激に増大した。(c)シミュレーションで得られたピコキャビティの電場増強度(縦軸)をギャップ距離(横軸)に対してプロットしたグラフ。ギャップの直下(黒)の分子が非常に強い電場を感じており、位置がわずか0.3ナノメートルずれる(赤)だけで信号が大きく弱まることが示されている。また、探針先端にピコキャビティが存在する場合(黒)としない場合(黄)を比べると、前者が(b)の実験結果とよく一致しており、原子スケールに閉じ込められた電磁場が分子との相互作用を支配し、ラマン信号の大幅な増強に寄与していることがわかる。
図3は、ギャップ距離に対するH2およびD2の回転および振動モードのラマンピークの変化を示しています。興味深いことに、H2の振動モードにのみ顕著な変化(ピークの赤方偏移と線幅増加)が観測されました(図3c)。一方で、同じギャップ距離範囲において、H2の回転モードには明確な変化が見られなかったことから(図3a)、水素分子が構造的に大きく変形しているわけではなく、H-H間距離が保たれていることがわかります。この結果は、H2の振動モードが単純な調和振動子モデルから逸脱し、非調和性が顕著になることを示しています。対照的に、この挙動はD2では観測されていないため(図3b、d)、水素分子の量子的な振る舞いから生じる同位体効果によって引き起こされた同位体効果であると考えられます。このようなH2とD2の振る舞いの顕著な差異は、これまでの表面振動分光実験では報告されておらず、本研究で用いた探針による極限的に狭い局所環境、すなわち水素分子をピコキャビティ内に閉じ込めた状態で初めて観測された現象です。
図3 (a-b)H2とD2の回転モード、(c-d)振動モードのラマンピークのギャップ距離に対する依存性を示した二次元プロット。すべての場合で、ギャップ距離(縦軸)が減少するにつれてピーク強度(カラースケール)が増大している。一方で、H2の振動モードにおいてのみ、ピーク位置の赤方偏移および線幅の増加が観測されており、H2とD2の振動応答における顕著な同位体効果を示している。
振動モードに観測された非自明な同位体効果について、理解を深めるために、DFTとPIMDを組み合わせた理論解析を行いました。図4aおよびbは、銀ナノ探針と銀単結晶基板表面を再現したモデルに基づき、水素分子の量子力学的な振る舞い(原子核の揺らぎ)を考慮して行ったシミュレーションの結果を示しています。図4cおよびdは、(i)から(iv)の順にギャップ距離が縮まる際にピコキャビティ内の分子が感じるポテンシャルエネルギー面(注9)を計算した結果を示しています。その結果、H2とD2ではその形状に明確な違いが現れました。この違いが生まれる要因は、低温において水素の原子核が量子的に揺らいで広がっている「量子膨張効果」にあります。H2はD2に比べてこの揺らぎによる空間的広がりが大きく、その結果、表面上の分子同士の相互作用が弱まる一方で、探針とのファンデルワールス相互作用の影響をより強く受けることになります。この探針との相互作用によって、ギャップ内のH2がごくわずか、約0.2 nmだけ変位し(図4d)、それが結果として振動モードの大きな変化を生むことが理論計算によって示されました。図4eは、H₂およびD₂の振動モードの変化を理論と実験で比較したもので、理論計算が実験結果とよく一致していることが確認されます。これらの結果は、ピコキャビティのような極めて微小な空間では、水素分子の構造や振る舞いが非調和性や原子核の量子的揺らぎといった量子力学的効果に強く影響されることを示すものです。
図4 TERSスペクトル実験で観測された同位体効果を検証するために行った理論計算の結果。(a-b)計算に用いたモデル構造。銀ナノ探針(上部)と銀基板(下部)の間に水素分子が吸着しており、量子膨張効果によってD2(a)よりもH2(b)の方が隣接する分子の数が少ないという構造モデルを用いた。(c-d)分子と表面との間の距離(縦軸)に対するポテンシャルエネルギー(横軸)を、それぞれD2(c)の場合とH2(d)について計算した結果。(i)から(iv)は、探針が基板表面に近づく過程を表す。グラフの縦軸の上側には探針、下側には基板表面があるため、分子はそれらに挟まれた特定の位置で安定化する。その安定位置がそれぞれ青丸、赤丸で示されている。H2はD2よりも隣接分子の影響が小さいためにポテンシャル形状の変形が大きくなり、分子の安定位置が探針の接近によってより大きく変化することが示された。このポテンシャルエネルギー面に基づいて、各探針位置における水素分子の振動エネルギーが計算された。(e)ギャップ距離(横軸)に対するH2(赤)とD2(青)の振動エネルギーの変化(縦軸)をプロットしたグラフ。赤点、青点で示した計算結果がそれぞれ赤線、青線で示した実験結果とよく一致している。
本研究は、ピコキャビティに閉じ込めた水素分子を、TERSによって単一分子レベルで分光計測し、得られた振動・回転スペクトルをもとに、分子の構造とダイナミクスに影響を及ぼす量子効果を解明したものです。これは、原子スケールの光と物質の相互作用を通じて分子の振る舞いを理解・制御する精密分子分光における重要な成果と位置づけられます。
本研究で得られた知見は、将来的に、クリーンエネルギー技術に不可欠な水素貯蔵材料の機能解析、分子レベルでの反応制御が求められる高性能触媒の開発、さらには単一分子を用いた量子制御技術の実現といった分野への応用が期待されます。これらの応用展開は、次世代のナノ計測技術および量子技術の基盤構築に資するものであり、エネルギー・材料・情報といった広範な分野に波及効果をもたらす可能性があります。
掲載誌:Physical Review Letters
論文タイトル:Picocavity-enhanced Raman Spectroscopy of Physisorbed H2 and D2 Molecules
著者:Akitoshi Shiotari*, Shuyi Liu, George Trenins, Toshiki Sugimoto, Martin Wolf, Mariana Rossi*, and Takashi Kumagai*(*責任著者)
掲載日:2025/05/20
DOI:10.1103/PhysRevLett.134.206901
本研究は自然科学研究機構分子科学研究所の熊谷崇准教授、Fritz Haber Institute of the Max Planck Societyの塩足亮隼博士、Max Planck Institute for Structure and Dynamics of MatterのMariana Rossi博士を中心とした国際研究チームにより行われました。
共著者
Shuyi Liu 博士(Fritz Haber Institute of the Max Planck Society(研究当時)、現職:華中科技大学 教授)
George Trenins 博士(Max Planck Institute for Structures and Dynamics of Matter)
杉本敏樹 准教授(分子科学研究所)
Matin Wolf 教授(Fritz Haber Institute of the Max Planck Society)
本研究は、JST創発的研究支援事業(JPMJFR201J、JPMJFR221U)のサポートを受けて行われました。
熊谷 崇(くまがい たかし)
自然科学研究機構 分子科学研究所 メゾスコピック計測研究センター / 総合研究大学院大学 准教授
TEL:0564-55-7410
E-mail:kuma_at_ims.ac.jp(_at_は@に変換してください。)
塩足 亮隼(しおたり あきとし)
Fritz Haber Institute of the Max Planck Society, Department of Physical Chemistry Group Leader
TEL:+49-30-8413-5181
E-mail:shiotari_at_fhi-berlin.mpg.de(_at_は@に変換してください。)
自然科学研究機構 分子科学研究所 広報室
TEL:0564-55-7262
E-mail:kouhou_at_ims.ac.jp(_at_は@に変換してください。)
総合研究大学院大学 総合企画課 広報社会連携係
TEL:046-858-1629
E-mail:kouhou1_at_ml.soken.ac.jp(_at_は@に変換してください。)