分子科学研究所

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2026/05/08

プレスリリース

オングストロームスケール極薄分子膜の高感度直接ラマン分光を実現
― プラズモン電場増強や電子共鳴に頼らない表面・界面非線形ラマン計測の革新 ―
(杉本敏樹グループ)

【発表のポイント】

  • ・従来、オングストロームスケールの極薄分子膜をラマン分光1)で計測するにはプラズモン電場増強2)や電子共鳴3)による信号増大効果が必要となるため、計測可能な物質・分子系に制限がありました。本研究では、それらに依存せず、さまざまな物質の表面・界面分子系に対する高感度直接ラマン計測を可能にする非線形コヒーレントラマン分光法4)を実現しました。
  • ・本研究では、これまで非線形コヒーレントラマン分光法4)による表面・界面計測を妨げていた基板由来の強い非共鳴背景信号を、時間-周波数領域の応答制御に基づく最適化光学設計により約4桁抑制することに成功し、極薄界面分子系に対する高感度ラマンスペクトル測定法を確立しました。
  • ・ 本手法は、特殊なナノ構造設計や特定材料・分子系に依存せず様々な系に適用可能な新世代の表面・界面ラマン計測基盤として、電気化学・触媒・接着接合・分子デバイスなどの実機能界面のリアルタイム計測やオペランド分析5)への展開が期待されます。

【概要】

 分子科学研究所の研究グループは、時間-周波数領域の応答制御に基づく非線形コヒーレントラマン分光法4)を開発し、オングストロームスケールの極薄分子膜(厚さ1 nm以下)に対する高感度直接ラマン分光を実現しました。これまで、極薄分子膜のラマン分光には、プラズモン電場増強2)や電子共鳴3)による信号増大効果が必要であり、適用できる物質・分子系には大きな制限がありました。本研究では、基板由来の強い非共鳴背景信号を約4桁抑制するとともに、残留背景信号を干渉増幅に活用することで、原子的に平坦な金属表面上の極薄分子膜から直接ラマンスペクトルを取得することに成功しました。この研究成果は米国化学会の学術誌『Nano Letters』に、2026年4月27日付で掲載されました。

1. 研究の背景

 表面や界面には、電気化学反応、触媒反応、接着・接合、分子デバイス動作など、物質の機能を決定づける重要な現象が集中しています。これらの機能発現の本質を理解するためには、表面・界面に存在する分子の構造や化学状態を分子レベルで直接観測することが重要です。ラマン分光法1)は、分子振動を通じて化学結合や分子構造を解析できる有力な手法ですが、表面・界面に存在する分子層は極めて少数であるため、特にオングストロームスケールの極薄分子膜では信号が非常に弱く、直接計測は困難でした。このため従来は、金属ナノ構造によるプラズモン電場増強2)や分子の電子共鳴3)を利用した信号増強法が広く用いられてきました。しかし、プラズモン電場増強法では、金属ナノ構造や粗い表面構造の導入が必要となるため、本来観測したい対象の表面・界面状態そのものを変化させてしまう可能性があります。また、適用対象も、そのような増強構造を導入できる表面・界面系に限られます。一方、電子共鳴を利用した方法では、励起光の波長と都合よく共鳴する電子状態をもつ特定の物質や分子に対象が限られます。そのため、より広範な物質・分子系に対して試料本来の状態を保ったまま汎用的に表面・界面計測が展開できる、革新的なラマンスペクトル測定法の開発が求められていました。

2. 研究の成果

 当該研究グループは、この課題を解決する新たなアプローチとして、三次非線形光学効果6)に基づくコヒーレントラマン分光法4)に着目しました。コヒーレントラマン分光法は、光と物質の非線形相互作用によって分子振動を位相の揃った状態で強制的に励起し、そこから生じる振動応答の光信号を検出します。そのため、自然放出7)過程に基づく通常のラマン分光法と比べて高感度な振動計測が可能な手法として期待されています。一方で、分子振動に共鳴するコヒーレントラマン過程と並行して、物質基板のバルクから極めて強い非線形背景信号(振動非共鳴背景信号)8)が発生します。そのため、バルクに比べて少数の表面・界面分子系からの微弱な信号は、この巨大な背景信号に覆い隠されてしまいます。そのため、極薄分子系に対してコヒーレントラマン分光を適用することは困難でした。

 そこで本研究では、フェムト秒ポンプ光とストークス光で分子振動を強制励起し、時間遅延を与えた非対称ピコ秒プローブ光で信号を読み出す、時間領域測定と周波数領域測定を融合した光学設計を採用しました(図1)。この手法では、同時照射するポンプ光・ストークス光に対してプローブ光の到達時間を精密に制御することで、3つの光パルスの瞬時的重なりに由来する基板バルクからの巨大な非共鳴背景信号8)を約4桁抑制することに成功しました。さらに、この背景信号を完全には除去せず一部を意図的に残留させ、それを表面・界面分子由来のコヒーレントラマン信号と干渉させることで、分子信号をさらに1桁以上増幅して検出することに成功しました。その結果、原子的に平坦で比表面積が最小の金属表面上に形成されたオングストロームスケール厚さの極薄分子膜に対してさえも、高感度なラマンスペクトル測定が可能となりました(図1)。

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図1.時間領域測定と周波数領域測定を融合した表面・界面コヒーレントラマン分光法。従来のラマン測定で必要とされていたプラズモン電場増強や電子共鳴を用いることなく、オングストロームスケールの極薄分子系の計測を可能にした。

3. 本研究の波及効果・社会的意義

 本成果は、従来の表面・界面ラマン測定において広く用いられてきたプラズモン電場増強2)や電子共鳴3)を必要としない、新たなラマン分光分析基盤を提供するものです。特殊なナノ構造設計や特定材料・分子系に依存しないため、これまでラマン分光の適用が難しかった多様な物質の表面・界面分子系へ展開できる、汎用性の高い次世代ラマンスペクトル測定技術として期待されます。本手法は、電気化学反応のリアルタイム・オペランド解析、触媒表面における反応活性種や反応中間体の検出、接着界面の分子構造・化学状態解析、分子デバイスや有機電子材料の界面評価など、幅広い実機能界面への応用が期待されます。これにより、エネルギー変換材料、化学プロセス、先端電子材料などの高性能化や高機能化への貢献が期待されます。

 さらに、本分光手法はラマン遷移に基づくため、従来の赤外分光では観測が難しかった等核二原子分子9)などの赤外不活性分子の表面・界面吸着系に対する分光分析にも新たな道を拓くと期待されます。本手法は超短パルス光を用いた計測法であることから、フェムト秒からピコ秒時間領域で進行する界面分子ダイナミクスや反応初期過程の時間分解ラマン観測への発展も期待されます。これまで実験的アクセスが難しかった表面・界面分子種のラマン活性モードを計測・解析することで、未開拓の表面・界面分子系における構造、ダイナミクス、量子状態の理解が進み、関連分野の新たな学術展開につながることが期待されます。

4. 用語解説

(1)ラマン分光: 物質に光を照射した際に生じる散乱光のうち、分子振動や回転運動のエネルギー差分だけ波長が変化した光を計測解析する分光法。分子振動や回転運動に伴って分子の分極率が変化することで生じる散乱現象を利用しており、分子の化学結合、構造、相互作用などを調べることができる。通常は、自然放出過程によって散乱された光を検出する。赤外分光では観測しにくい振動モードを測定できることも多く、用いる光の透過性も高いことから、化学・材料・生命科学など幅広い分野で利用されている。

(2)プラズモン電場増強: 金属ナノ構造に光を照射した際、金属中の自由電子が集団的に振動する現象によって、ナノ構造近傍に非常に強い電場が生じる。この強電場を利用すると、ナノ構造近傍に存在する分子のラマン信号を大幅に増強できる。代表例として、金属製ナノ探針を試料に近づけて局所的に信号を増強する探針増強ラマン散乱(TERS)や、極薄の絶縁被膜で覆った金属ナノ粒子を試料表面に分散させてナノ粒子近傍の増強電場を利用して測定するシェル絶縁ナノ粒子増強ラマン分光(SHINERS)、金属表面にナノ構造や凹凸を形成して信号を増強する表面増強ラマン散乱(SERS)等がある。これらの手法はいずれも、観測対象に金属ナノ構造や外部ナノ粒子などの人工的構造・異物を導入する必要があるため、表面・界面における分子の構造や量子状態が本来の状態から変化することが懸念される[T. Sugimoto et al., Phys. Rev. B 96, 241409(R) (2017)]。

(3)電子共鳴: 入射光のエネルギーが、分子や物質がもつ電子状態間の遷移エネルギーと一致したときに起こる共鳴現象。この条件では光吸収や散乱が著しく強まり、ラマン信号も大きく増強される。共鳴ラマン分光は、色素分子や半導体など特定の電子状態をもつ系の高感度測定に広く利用されている。

(4)非線形コヒーレントラマン分光法: 複数のレーザー光と物質との非線形相互作用を利用して、位相の揃った分子振動を強制的に励起し、そこから生じる強い指向性の光信号を検出するラマン分光法。通常のラマン分光より高感度で高速な測定が可能であり、代表例としてコヒーレント反ストークスラマン散乱(CARS)やコヒーレントストークスラマン散乱(CSRS)、誘導ラマン散乱(SRS)などがある。本成果はCARS過程に立脚している。

(5)オペランド分析: 材料やデバイスが実際に機能している動作環境下で、その場観測を行いながら性能や反応機構を解析する手法。例えば、触媒反応中、電池の充放電中、デバイス駆動中など、実使用条件に近い状態で計測することで、実際の機能発現の仕組みを解明する。

(6)非線形光学効果: 物質に強い光を照射したとき、物質の光学応答が入射光の強さに比例する通常の線形応答から外れ、高次の応答成分が現れる現象。これにより、複数の光波が相互作用して、入射光とは異なる周波数や性質をもつ新たな光信号が生成される。表面・界面選択的計測、超高速時間分解計測、高感度分光などを可能にする重要な物理現象であり、現代の先端分光技術を支える基盤原理の一つである。

(7)自然放出: 励起された分子や原子が、外部からの刺激を受けずに自発的に光を放出して元の状態へ戻る現象。通常の蛍光や通常のラマン散乱は、このような自発的な放射過程に基づく。一方、非線形コヒーレントラマン分光では、外部光場によって誘起された位相の揃った分極から指向性を持った光信号が発生する。

(8)非線形背景信号(振動非共鳴背景信号): 目的とする分子振動とは無関係に、瞬時的な電子応答などに由来して試料や基板から発生する非線形光信号。特に金属や高密度材料ではバルク領域から非常に強く生じるため、相対的に少数しか存在しない表面・界面系の分子系からの微弱な振動共鳴応答を覆い隠してしまう。そのため、表面・界面分子を対象とした非線形コヒーレントラマン分光計測の実現に向けて大きな障害となってきた。

(9)等核二原子分子: 同じ元素の原子2個から構成される二原子分子。代表例として、水素(H₂)、酸素(O₂)、窒素(N₂)、塩素(Cl₂)などがある。対称性が高いため、通常は永久電気双極子モーメントを持たず、分子振動に伴う電気双極子モーメントの変化も生じない。そのため、赤外分光では観測が困難である。一方、分極率の変化を利用するラマン分光では原理的に観測可能であるが、従来のラマン分光法では表面・界面系に対する感度が十分ではなく、吸着分子や極薄分子層として存在する場合の観測は困難であった。

5. 論文情報

掲載誌:Nano Letters 
論文タイトル:"Plasmonic- and Electronic-Enhancement-Free Coherent Raman Detection of Ångström-Scale Molecular Layers at Metal Interfaces" (「プラズモン増強・電子共鳴に頼らない金属界面オングストロームスケール分子層のコヒーレントラマン検出」)
著者:Toshiki Sugimoto, Tomoaki Ichii, Tsuneto Kanai, Ryu Yoshizawa, Shota Takahashi, Atsunori Sakurai, Keisuke Seto, and Chengxiang Jin
掲載日:2026年4月27日(オンライン公開)
DOI:10.1021/acs.nanolett.6c00802

6. 研究グループ

自然科学研究機構 分子科学研究所

7. 研究サポート

 本研究は、JSPS 科学研究費助成事業基盤研究(A)[22H00296]、挑戦的研究(萌芽) [21K18896, 24K21759]、基盤研究(B)[23K26548]、ATLA 安全保障技術研究推進制度[JPJ004596]、JST創発的研究支援事業[JPMJFR221U]、JST-CREST[JPMJCR22L2]、JST Kプログラム [JPMJKP24W1]、天田財団 一般研究開発助成, [AF-2021212-B2]、NINS 分野融合型共同研究事業[01112104]、分子科学研究所 課題研究[22IMS1101]の支援の下で実施されました。

8. 研究に関するお問い合わせ先

杉本 敏樹(すぎもと としき)
分子科学研究所/総合研究大学院大学 准教授
TEL:0564-55-7280
E-mail:toshiki-sugimoto_at_ims.ac.jp(_at_は@に変換してください。)

9. 報道担当

自然科学研究機構 分子科学研究所 研究力強化戦略室 広報担当
TEL:0564-55-7209 FAX:0564-55-7374
E-mail:press_at_ims.ac.jp(_at_は@に変換してください。)

総合研究大学院大学 総合企画課 広報社会連携係
TEL:046-858-1629
E-mail:kouhou1_at_ml.soken.ac.jp(_at_は@に変換してください。)