われわれの身の回りの物質(その中には、われわれの体自身を含みます)は、わずか100万分の1ミリ程度という極微の存在である分子によって形作られています。なめらかな水の流れも、ひとしずくに含まれる膨大な数(1兆の1億倍以上!)の分子たちが、乱雑さと協調という2面性を保ちながら動きまわることによって作り出されているのです。私たちが、見て、聞いて、嗅いで、触って、味わって、健康に活動できるのも、私たちのからだを形作る分子たちが、協調して働いているおかげです。植物が太陽のエネルギーを取り込む仕組みも、まさに分子たちの巧みな働きそのものです。
分子たちが働いている現場は、身近な世界から広大なスケールにまでわたっています。大気中のオゾン分子が有害な紫外線をカットしてくれているように、分子の振る舞いが地球全体の環境も大きく左右しています。さらに、はるかな宇宙空間にも膨大な数の分子が存在し、星を生み出すもととなっています。
「物質を構成する根本的存在」としての「分子」という概念は、古代ギリシャ文明において芽生え、科学の発展につれて紆余曲折を経ながら形作られてきました。特に、20世紀前半の量子力学の確立とともに原子と原子を結びつける化学結合の本質を理解することが可能となり、多様な物質のありさまを研究する「化学」と、自然界の基本法則を探求する「物理」が融合する基盤が整いました。このような気運のもとに、これまでは異なる学問と認識されていた「化学」と「物理」をつなぐ新しい学際領域として「分子科学」は誕生しました。「分子科学」は、分子が活躍する多彩な現象の本質を根本原理に基づいて理解し、その上で、全く新しい分子の性質や振る舞いを見いだし、望ましい性質や機能を持つ様々な新物質を生み出そうとする科学なのです。
自然科学のほぼ全ての分野は物質に基盤を置いており、分子レベルでの理解は本質的となっています。分子科学はこれらの多様な学問領域の「幹」であり、21世紀に入って、基礎物理学、天文学、情報科学、環境科学、バイオサイエンス、創薬、医学・生理学など、ますます広範囲な分野との融合が進んでいます。登場する分子もバラエティに富み、星間空間中に存在するエキゾチックな分子から、数万個以上の原子から構成されるタンパク質などの巨大分子、さらに、多数の分子が自発的に規則正しく配列した分子集合体まで、その大きさや形状は極めて多種多彩です。分子科学は、これらの多様で豊潤な分子の世界の仕組みを解き明かし、エネルギーの有効利用や環境問題への対応など、持続可能な社会を実現するために不可欠な新しい科学技術の開発に貢献してきており、今後もその役割を果たし続けます。