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分子科学研究所の創設の経緯

分子科学研究所と岡崎国立共同研究機構の創設に関わる話につきまして、下記の文献を参考にしています。

参考文献

(1)文部省資料「分子科学研究所・基礎生物学研究所・生理学研究所創設の経緯に関する資料」文部省、昭和53年6月
(2)長倉三郎「思い出すままに-揺籃期の分子科学」分子研レターズ、No.1, p.13, 昭和51年3月
(3)井早康正「分子研設立運動への回想」分子研レターズ、No.2, p.9, 昭和51年10月
(4)赤松秀雄「歴史のなかの分子研10年の歩み」十年の歩み、p.1, 分子研、昭和60年5月
(5)山下次郎「分子研とのかかわりあい-分子科学研究所創設準備会議座長として」分子研レターズ、No.5, p.2, 昭和53年12月
(6)「追憶 赤松秀雄」井上勝也・井口洋夫・黒田晴雄編、岩波ブックサービスセンター、1991 森野米三「赤松さんの思い出」、赤松康江「追憶」、井口洋夫「赤松秀雄先生と分子科学研究所」、久保亮五「赤松先生のこと」、長倉三郎「深いいにしえを感じつつ」
(7)渡辺格「水島研究室の分子構造研究の底流をなすもの」回想の水島研究室-科学昭和史の一断面、馬場宏明・坪井正道・田隅三生編、共立出版、1990

 *)平成17年3月総研大葉山キャンパスにおいて開催された「大学共同利用機関の歴史」研究会においてなされた分子研広報の横山利彦教授の講演を文書化したものである。
また、総合研究大学院大学葉山高等研究センター「共同利用機関の歴史とアーカイブズ2004」(2005年)第9章より一部改変の上転載している。

分子科学研究所と岡崎国立共同研究機構の創設

文部省の資料は参考になることが多いのですが、非公開となっています。 その他は分子研の出版物や初代赤松所長の追悼集などです。
【図表1】は分子研創設に関して時系列に整理し、その参考となる文献を列記したものです。

図表1】分子科学研究所創設の経緯 *[]内は参考文献
1945年1月 海軍要請、東京帝国大学輻射線化学研究所設置(所長:水島三一郎)
[渡辺格「水島研究室の分子構造研究の底流をなすもの」1990]
1957年 東京大学物性研究所発足 初の総合的基礎科学共同利用研究所
1950代後半頃~ 分子の電子的挙動に注目して化学現象を理解するための基礎概念や物質探求の新しい研究方法を開拓する研究所を作ろうという希望が電子状態懇談会に集まった化学や物理の若い研究者の間で折にふれて話題になっていた。
[長倉三郎「思い出すままに-揺籃期の分子科学」1976]
1961年10月6日 研究所設立の準備のための初会合
[井早康正「分子研設立運動への回想」1976]
1962年 分子構造分光学国際会議(組織委員長:水島三一郎)
1963年 分子科学研究所設立趣意書
小谷正雄(学習院大)、井早康正(電通大)、青野茂行(金沢大)
分子科学研究所(仮称)設立要望書ならびに設立案
5研究部(研究系)20部門、4室(研究施設)の構想 理論、分子構造、電子構造、分子集団、応用分子科学、電子計算機、極低温、化学分析、装置開発
1963年~ 日本学術会議・化学研究連絡委員会からの依託により(社)日本化学会の化学研究将来計画委員会により検討
1965年 分子科学研究会設立
1965年12月13日 日本学術会議 分子科学研究所(仮称)設立勧告
会長:朝永振一郎、化学研究連絡委員会委員長:水島三一郎、内閣総理大臣:佐藤栄作
設置形態は大学附置研 [文部省資料p.2-9]
1966年 赤松秀雄、日本学術会議第七期会員(第四部)に当選
化学研究連絡委員会のもとに分子科学研究所小委員会(委員長:森野米三)を設置
[森野米三「赤松さんの思い出」1991]
研究所の実現までにさらに10年もの長い年月の努力が必要であるとは予想できなかった[長倉三郎「思い出すままに-揺籃期の分子科学」1976]
1968年 大学紛争による安田講堂占拠事件
1971年 高エネルギー物理学研究所設立 国立大学共同利用研究所
[赤松秀雄「歴史のなかの分子研10年の歩み」1985]
1971~72年 科学研究費補助金 特定研究「分子科学」
分子科学全般の基礎となる研究方法の開発
分子科学研究所発足に際し、施設・設備の円滑な整備に配慮
1973年10月31日 学術審議会、分子科学研究所、基礎生物学研究所、生理学研究所(仮称)を緊急に設立することが適当である旨報告
会長:茅誠司、文部大臣:奥野誠亮
設置形態は文部大臣所管の国立大学共同利用機関[文部省資料p.9-11]
1973年12月 昭和49年度予算案において、分子科学研究所の創設準備のための経費3,611万円および定員3名計上
1973年末頃 分子科学研究所、基礎生物学研究所、生理学研究所の設置場所として、愛知県岡崎市(愛知教育大跡地)が候補地となる
設置場所を愛知県岡崎市にした理由[文部省資料p.69]
[井口洋夫「赤松秀雄先生と分子科学研究所」1991]
1974年4月11日 文部大臣裁定により、東京大学物性研究所に分子科学研究所創設 準備室(定員3名、室長:井口洋夫・東京大学物性研究所教授、総主幹: 岡田修一、主幹:野田裕之)および分子科学研究所創設準備会議(座長:山下次郎・東京大学物性研究所長、学識経験者35名)が設置
1974年7月6日 分子科学研究所創設準備会議において、3研究所の設置場所を愛知県岡崎市の現敷地と決定
1974年8月 昭和50年度概算要求において、分子科学研究所の創設に必要な経費および定員を要求
1974年12月 昭和50年度概算要求において、分子科学研究所の創設のための経費3億6,325万円および定員33名が計上
1975年1月4日 創設内示
「当局との厳しい折衝を経て…」
[井口洋夫「赤松秀雄先生と分子科学研究所」1991]
1975年1月13日 分子科学研究所創設準備会議に所長候補者選考小委員会が設けられ赤松秀雄横浜国立大学工学部長を所長候補者に選出
委員長:森野米三東京大学名誉教授
[文部省資料p.36-37]
[赤松康江「追憶」1991] [森野米三「赤松さんの思い出」1991]
1975年2月 分子科学研究所創設を含む国立学校設置法の改正案、第75回国会(通常国会)に提出
1975年2月13日 愛知教育大学跡地の旧図書館改修着手
[井口洋夫「赤松秀雄先生と分子科学研究所」1991]
1975年3月24日 分子科学研究所創設準備会議において申し送り事項がまとめられる
[文部省資料p.37-38] 
[山下次郎 「分子研とのかかわりあい-分子科学研究所創設準備会議座長 として」1978]
1975年4月22日

昭和50年度予算参議院通過
国立学校設置法を一部改正する法律(昭和50年法律第27号)の施行により、分子科学研究所創設
所長に赤松秀雄横浜国立大学工学部長が任命される

 

分子科学に関する研究所の始まりは、1945年、海軍の要請によって、東京帝国大学輻射線化学研究所が設置されたときにあると思えます。この研究所は分子研と直接の関係はありませんが、研究内容は当初の分子研と非常に近いものがありました。1957年に東京大学物性研究所が発足していますが、これはわが国初の総合的基礎科学共同利用研究所と言えます。
こうした状況から、化学の分野でも共同研究への関心が高まり、1961年10月6日に研究所設立の準備のための初会合が開かれています。井早康正「分子研設立運動への回想」(1976)では、このときの様子は以下のように書かれています。

井早康正「分子研設立運動への回想」(1976)より

分子研設立計画の流れについては前号に長倉教授がかなり詳細に書かれており、また分子研小委員会が設置されてからの経緯は分子科学研究会報にしばしば報告されていて周知のことであると思われるので、この機会をかりて設立運動のごく初期の事情に触れてみたい。15年前のことであるから、当時関係しておられた諸氏もほとんど忘れてしまわれたかとも思う。私自身、かなり記憶はあやしくなっているので、戸棚の片隅から古いファイルを取り出してみた。ひどく古ぼけたノートを見つけ、このなかに日誌のようなものが記されていたのである。そのなかに、“昭和36年9月某日、電子状態懇談会(物性研)で講演、帰途長倉氏らと会食、席上大学附置研(注、分子研のこと)の話あり、成立運動を依頼される”というのがあった。これは多分その前の某日に、帰国のあいさつのため長倉先生を訪ねた際、私が化学の分野にも物性研のような研究所がほしいというような話題を出して(これは私自身が外国滞在中に望んでいたことであったが)、長倉先生が自分も前から考えていたのだが、新設の物性研にいるために設立運動をやりにくい位置にあると言われたことと関係している。要するに、その時点から分子研設立は私の執念となった。設立運動といっても一体何をしたらよいのか皆目見当がつかないのと、またはじめのうちから偉い先生方に笑われるのが恥ずかしかったので、第1回の会合は在京の若手のみに集まってもらった。日時は昭和36年10月6日、場所はお茶の水女子大学の学生会館と記録されているが、残念ながら出席者は明確でない。」

1962年に分子構造分光学国際会議が日本で開催され、このあたりから研究所設立の気運がもりあがっていったようです。翌1963年に、小谷正雄(学習院大)、井早康正(電通大)、青野茂行(金沢大)の3氏による分子科学研究所設立趣意書が出されました。また分子科学研究所(仮称)設立要望書ならびに設立案が出され、5研究部(研究系)20部門、4室(研究施設)の構想が生まれています。
さらに日本学術会議・化学研究連絡委員会からの依託により(社)日本化学会の化学研究将来計画委員会において設立の検討が始まります。1965年には、設立運動団体として、分子科学研究会が設立されています。同年12月13日に、日本学術会議は分子科学研究所(仮称)設立の勧告を行なっています。そのときの学術会議会長は朝永振一郎、内閣総理大臣は佐藤栄作でした。当時はまだ共同利用研はありませんでしたので、設置形態は大学附置研でした。

1966年に赤松秀雄先生が、日本学術会議第七期会員(第四部)に当選され、化学研究連絡委員会のもとに分子科学研究所小委員会(委員長:森野米三)が設置されます。このあたりの状況は、森野米三「赤松さんの思い出」(1991)では、次のように書かれています。

森野米三「赤松さんの思い出」(1991)より

「その後のことであるが、分子科学研究所の設立についても赤松さんの決断と努力が大きな力となったことを思い出すのである。当時われわれは、まず分子科学研究会を作って分子科学が単に科学の一分野に限るものではなく、自然科学の基礎として不可欠のものであるとの情勢を作ることに努力していたが、赤松さんはたまたま日本学術会議の会員に選出された機会に、分子科学研究所の設立を学術会議に提案され、その実現のためにおおいに奮闘された。当時設立を申し出ていた研究所は二十数ヵ所あり、その実現は夢かもしれない有様であった。」

また長倉先生は「思い出すままに-揺籃期の分子科学」(1976)の中で次のように書いています。

長倉三郎「思い出すままに-揺籃期の分子科学」(1976)より

「昭和40年秋の日本学術会議で分子科学研究所の設立勧告が認められた頃、分子構造総合討論会が名古屋で開かれており、その懇親会の席上、当時日本学術会議会員であった赤松現所長の報告を感慨と感激をもって聴いた記憶が今もなまなましい。その当時、研究所の実現までにさらに10年もの長い年月の努力が必要であるとは予想できなかった。昭和40年に揺籃期を脱してから昭和50年に研究所が実現するまでの10年間は、暗中模索が続いた昭和45年初めまでの前期5年間と、その後の5年間に分けて考えるのが妥当であると思う。後の5年間は研究所の設立が次第に軌道に乗り、前途に光明を認めながら実現に努力した時期である。」

 1968年の安田講堂占拠後、1971年に高エネルギー物理学研究所が設立されます。赤松秀雄「歴史のなかの分子研10年の歩み」(1985)では、この時代の状況が以下のように書かれています。

赤松秀雄「歴史のなかの分子研10年の歩み」(1985)より

「昭和40年秋の学術会議総会で分子研の設立が認められ政府に勧告されたが、分子研の発足までには、さらに10年待たねばならなかった。その間には大学紛争なども含みいろいろな事情があったであろうが、主な理由は昭和37年の原子核将来計画の処置をすます必要があったからであろう。大型陽子加速器を含むこの計画は巨大設備と巨費を伴うものであって一大学の枠には到底おさまらないものであった。素研問題と呼ばれたこの問題は46年に高エネルギー物理学研究所が、国立大学共同利用研究所として設置されることで解決した。この制度によれば高エ研は直接文部省の管轄下におかれるが、従来の省庁直轄研究所と異なり国立学校設置法の改正に伴って極めて大学に近い組織運営を可能にするものである。」

 上記のように、いわゆる素研問題が、高エネ研が共同利用研究機関として設立されることで解決した後には、分子研設立にもかなり光が見えてきました。1971~72年、科学研究費補助金による特定研究「分子科学」が始まっています。これは、分子科学全般の基礎となる研究方法の開発とともに、分子科学研究所発足に際し、施設・設備の円滑な整備に配慮したものでした。

1973年10月31日、学術審議会は、分子科学研究所、基礎生物学研究所、生理学研究所(仮称)を緊急に設立することが適当である旨を報告しています。このときの会長は茅誠司、文部大臣は奥野誠亮で、設置形態は附置研ではなく、文部大臣所管の国立大学共同利用機関とするものでした。
1973年12月、昭和49年度予算案において、分子科学研究所の創設準備のための経費3,611万円および定員3名が計上されます。また同年末頃、分子科学研究所、基礎生物学研究所、生理学研究所の設置場所として、愛知県岡崎市(愛知教育大跡地)が候補地となっています。設置場所を岡崎にした理由は、文部省資料によれば、研究所を早期に建設するためには多額な土地購入費が必要なので公有地や民有地は適切ではなく国有地を対象に絞ったこと、京都、静岡など国立大の土地も検討されたが、岡崎以外は広さの制約及び早期利用の困難性から候補から外されたとなっています。
1974年4月11日、文部大臣裁定により、東京大学物性研究所に分子科学研究所創設準備室が設置されました(定員3名、室長:井口洋夫・東京大学物性研究所教授、総主幹:岡田修一、主幹:野田裕之)および分子科学研究所創設準備会議(座長:山下次郎・東京大学物性研究所長、学識経験者35名)が設置されています。候補場所の調査の結果、同年7月6日、分子科学研究所創設準備会議において、3研究所の設置場所を愛知県岡崎市の現敷地にすることが決定しました。
1974年8月、昭和50年度概算要求において、分子科学研究所の創設に必要な経費および定員を要求し、12月に、昭和50年度概算要求において、分子科学研究所の創設のための経費3億6,325万円および定員33名が計上されています。そして翌1975年1月4日、分子研の創設が内示されました。このあたりの経緯は、井口洋夫「赤松秀雄先生と分子科学研究所」(1991)では、「当局との厳しい折衝を経て…」と記されています。

井口洋夫「赤松秀雄先生と分子科学研究所」(1991)より

「連日の作業と数十回の委員会によって準備を完了。さらに研究所の運営方針に対して、当局との厳しい折衝を経て、昭和50年度の政府予算案の中に創設が盛り込まれた。この1年、長倉先生や赤松先生にお供をして文部省、大蔵省に足を運ぶことが何回となくあった。」

 1975年1月13日、分子科学研究所創設準備会議に所長候補者選考小委員会が設けられ、赤松秀雄横浜国立大学工学部長を所長候補者に選出しました。委員長は森野米三東京大学名誉教授でした。このときの文部省議事録には、以下のように記載されています。

またこのときの赤松先生の行動を、妻・赤松康江さんは「追憶」(1991)の中で、次のように回想しています。

赤松康江「追憶」(1991)より

「東大定年後、横浜国立大学工学部教授になり、しばらくして昭和49年頃、工学部長になりました。次いで、創設に努めた分子科学研究所の所長に就任しました。この直後、横浜国立大学の学長候補に選ばれ、学長になるか分子科学研究所の初代所長として建設に尽力するか、2つの道のいずれかを選択する問題が起きました。常に大きなことをしたい人でしたから、いろいろ考えた上で、分子科学研究所創設のほうを選び、私にもついて来てくれと申しましたので、私も岡崎に行くことに決心しました。何もない場所に初めから出発するのですから、大変な仕事でした。」

 また森野米三「赤松さんの思い出」(1991)では、所長選出に関わる次のような記述があります。

森野米三「赤松さんの思い出」(1991)より

「初代の所長を決める委員会で、私たちは文句なく赤松さんにお願いした。当時赤松さんは横浜国立大学の学長に選ばれておられ、健康上のことから考えると、わざわざ岡崎までご足労をお願いすることには躊躇するところもあったが、赤松さんの多年の活動の最後を飾るためには、一介の学長より初代の分子科学研究所の所長として研究所の完成に努力していただくことが望ましいと判断したのである。研究所が順調に発展して、第一級の研究所となったのには赤松さんの卓見と実行力が大きな力となったのである。」

 1975年2月、分子科学研究所創設を含む国立学校設置法の改正案が第75回国会(通常国会)に提出されました。2月13日に、愛知教育大学跡地の旧図書館改修に着手し、これが最初の建物となりました。3月24日、分子科学研究所創設準備会議において、下記のような申し送り事項がまとめられました。


(1)教授会
分子科学研究所に内規により教授会を設置することはこの研究分野の実状にかんがみて最も適当と思われます。
創設準備会議におきましても教授会の性格、機構、運営等について検討し、内規案として一応の成案をえておりますが、今後研究所内部にといて十分御検討をいただきたく存じます。
国立大学共同利用機関におきましては教授会は公的には設置されておらず、従って教授会の自治の慣習も存在いたしませんが、名目はともかく実質において、教授会が良識をもって自らを正し、所長のよき補佐として、その意志が尊重させられる慣習が確立されるよう切望いたします。

また山下次郎 「分子研とのかかわりあい-分子科学研究所創設準備会議座長として」(1978)では、次のように書かれています。

山下次郎 「分子研とのかかわりあい-分子科学研究所創設準備会議座長として」(1978)より

「大学に附置された研究所とは異なり、国立大学共同利用機関である分子科学研究所には制度上からは教授会は存在せず、所長の権限は大きい。制度はとにかく、現実問題として、所長のリーダーシップと教授集団の意志とは常によく噛み合って行かねばならない。そしてそれぞれが自発的、相互的に調節されなければならない。それは制度の問題ではなくしてよき慣習の問題である。その基本にあるものは分子科学研究所に対する愛情であると思う。
わたしは分子科学研究所のいわゆる“教授会”が事実上附置研のそれの如き権限を持ち、活動できることを念じていた。しかし、制度上の制約からして、それはすべて所長の運営の妙にゆだねられることになっている。しかし、わたしはその点について危惧の念は持ってはいない。現在分子研をその内外から支えている人たちがどんなに長い間この研究所の創立を切望し、設立を喜んでおられるかを知っているからである。分子研それらの人々の愛情によって支えられている。その愛情の存する限り、分子研の前途は洋々たるものがあると思うのである。」

 こうして1975年4月22日、昭和50年度予算が参議院を通過し、国立学校設置法を一部改正する法律(昭和50年法律第27号)の施行により、分子科学研究所が創設され、所長に赤松秀雄横浜国立大学工学部長が任命されました。