分子科学研究所

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広報活動

密度行列繰り込み群に基づく量子化学の最前線:理論と応用

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[はじめに]
一電子描像は、化学結合や反応を解釈する上で簡便で強力な概念であり、またそれに基づく分子軌道理論や配位子場理論は分子科学者の常備ツールである。今、理論化学の最前線では、一電子描像を超越する化学の電子状態をどう記述しどう理解するかという問題が先端的な課題として取り組まれ、そして、その理論の開発に新しい進展が見られる。一電子的記述は、実際の多電子描像を平均化した表現であり、電子状態を単一の電子配置によって近似的に捉えることに等しい。一方で、一電子描像を超える電子状態では、複数の電子配置による量子的重ね合わせ(多参照)状態を考慮する必要があり、自明でない複雑さを伴う。本研究グループでは、発足以来、密度行列繰り込み群(DMRG)を用いた量子化学計算法の開発を進め、大次元の多
参照電子状態の高速計算を実現してきた。この量子シミュレーション技術を用いて、従来適応不可能とされたチャレンジングな分子系に対する電子状態計算を行い、有機分子のポリラジカル状態、磁性状態、電子励起状態、光合成を司る錯体分子の混合原子価状態、量子スピン状態などを記述することができた。本稿は理論と応用について紹介する。

[多電子理論とその量子化学]
電子状態を、一電子が感じる平均相互作用およびその運動Fと二電子間クーロン反発相互作用
VによるハミルトニアンH=F+Vにより特徴づけよう。F>V(弱電子相関)の場合、一電子描像が支配的で、HOMO-LUMOエネルギー差は大きく、電子をHOMOまで詰める「単一」の電子配置によって電子状態を把握できる。密度汎関数理論(DFT)などはこのような弱相関系を精度良く簡便に扱える理論である。一方、F<V(強電子相関)の場合、HOMO-LUMOエネルギーは擬縮重し、その為HOMOだけでなくLUMOへの電子占有も許す電子配置を「複数」考慮しなければ正確な電子状態を記述することができない(図1)。このような強相関系は、一電子描像のDFTの欠点が現れる系で、多体問題として取り扱う必要がある。そのモデリングは、電子配置の重ね合わせとして定式化できる(多参照法)が、その自由度はネズミ算式複雑さを持つ(図2)。例えば、擬縮重した軌道状態を持つ原子が複数個結合することにより、より大きな擬縮重性が現れ、その記述に必要な重ね合わせの自由度は指数関数的に増大し、既存の理論手法では適用限界に容易に達する。こうした問題は、固体物理の強相関現象(超伝導など)の理論研究にも見られる一大チャレンジであり、また最近では分野融合による活発な取り組みも見られる。

量子化学計算で扱う化合物おいて強相関現象とはなんだろうか? バルクのようなマクロ電子系でなく、分子の電子系において、強い電子相関がどんな興味深い化学に関与しているのだろうか? 一例としては、カロテノイドのπ-π*励起状態の許容状態と禁制状態が挙げられる。許容状態は一電子励起的な電子状態として、また、禁制状態は二電子励起やそれ以上の励起キャラクターを持つ強相関な電子状態として知られる[1]。興味深いことに、エネルギー順位に関して、一電子励起の許容状態より、二電子励起の禁制状態の方が順位が低い(図3)。そのため、この禁制状態は、光合成などにおけるエネルギー移動を理解する上で重要な電子状態であると知られる。なぜ一電子余分に励起させる禁制状態の方がエネルギーは低いのだろうか? これは一電子描像を超える禁制状態が持つ強い電子相関に起因する。この例のように、強相関がからむ電子系では人間の直感に従わない量子多体現象、“more is different”な創発性が出現することがある。我々の最近の研究(後述)では、光合成水分解中心の多核マンガンクラスタやグラフェンナノリボンも一電子的理解が通じない系であることを示した[2,3]。このような現象の背後には、指数関数的に複雑化する電子の物理があり、これを記述するには人間はもちろんコンピュータでも容易に理解の限界に達する。