研究・研究者
研究者インタビュー|杉本敏樹准教授
Researcher interview 2020. 03
今回は、物質分子科学研究領域の杉本敏樹准教授にお話を伺います。杉本先生が研究対象としている水分子は、最も身近で自然界に豊富に存在する分子の代表格です。実は、この水分子は様々な物質の表面や異なる物質が接している「界面」に吸着し凝集し易いという性質があります。物質の表面や界面に存在している特殊な水分子は、化学反応を誘起したり、物質の性質(物性)を大きく変化させたり、ひいては生命現象において本質的に重要な役割を果たしています。水分子は水素原子と酸素原子から成りますが、このような物質の表面や界面に存在する水分子の水素を観測することは極めて難しく、重要な役割を果たしている特殊な水分子が液体水のような普通の水分子と比べてどのように特異なものなのかを分子レベルで解き明かすことが困難でした。杉本先生は、水分子の構造や特殊な状態を微視的に観測することができる様々な実験手法を駆使して、固体の表面や界面に存在する水分子の観測を進められています。この方法で、今まで誰も見ることができなかった「機能する水分子」の真の姿を捉え、その働き方を理解し、さらに制御する研究を展開されています。それでは本日は、研究者を志すに至った経緯なども含めてじっくりとインタビューしていきたいと思います。よろしくお願いいたします。
*杉本准教授のプロフィールはこちらをご覧ください。
――研究者になろうと思われたのは何故ですか。
私の場合は、研究者になろうと思ったのは大学院に進学した後で、元々は実は高校の数学の先生になりたいと思っていたんです。私が通った高校では習熟度に合わせて複数の先生の数学の授業を受けることができる制度がありまして、その中に京都大学理学部をご出身の数学の先生が2名おられました。その先生方の授業は他の先生の授業と比べて、数学が苦手な生徒に対しても十分な配慮がなされていて、かつ解説の深みが段違いだったんです。その先生方の授業を受けて「数学ってこんなオモロかったのか!」と衝撃を受けまして、私も京大で数学の深みを学び、その先生方のように高校生に数学を教えたいなと思うようになったんです。私の出身も京都でしたので、京大には憧れに加えて個人的に親近感を抱いていました。ですが、当時は京大は"学力的"には非常に遠い存在で、受験に向けてかなり頑張ったのですが結果的に落ちてしまいました。そこで1年浪人して京大受験に再チャレンジすることにしたのですが、その中で、島津製作所の田中耕一博士がノーベル化学賞を受賞されたというニュースが飛び込んできました。2002年の秋のことです。田中博士の特集番組等を見る中で、理科を極めることで世の中の役に立つ新しいテクノロジーを作り出すことができることを実感し,身震いしました。その時に、数学だけでなく、テクノロジー分野にも大きく貢献できる理科系の分野も魅力的だなぁと感じました。実際に研究者になろうと思ったのは、後でお話しするように大学院に進学した後の段階だったのですが、理科系の研究への漠然とした憧れのようなものを抱いたのはこの浪人時の出来事でした。
――高校の先生との出会いでは、教育より学術について感化されたのですか。
私は,高校でその2人の先生方に出会うまでは、数学なんか面白くない、自分は"文系の人間"だと思っていました。そういえば、高校の進路部長をしておられたとある先生にも、高校一年生の確か夏頃に「君は理系に進むべきではない」等と面と向かって言われた記憶もありますね。その進路部長の先生のことはその後はなるべく気にしないようにしていました(笑)。まあ、同級生も含め周囲からもいろいろ言われていたような気もしますが、数学のロジカルな解法・演繹的な側面に強い興味を持ってしまっていましたので、周囲の声は聞かず、「将来は自分も深みのある数学の授業ができる先生になりたい!」という思いで高校生の頃は突っ走っていましたね。
――では研究者になっていなければ、先生になられていたのでしょうか。
はい、研究者でなければ何らかの教育職に携わっていたと思いますね。実際、大学時代は、精力的に塾講師のアルバイトで数学の授業をしていました。塾の講師仲間との夜の京都遊びに明け暮れた結果、大学3回生の時は4単位(前期と後期で1科目づつ)しかとらなかったほどです(笑)。今では、研究と教育の両方に深く携わることができる自分にとって理想的な道を歩むことができたなと思っています。私は学生に講義するのが好きな方で、学術的な深みや面白みを感じてもらうにはどのようなストーリー展開で授業を行うのがいいかということ自体も私の研究対象になっています(笑)。高校生向けのアウトリーチ活動も好きですよ。
――それは広報としては大変心強いです。是非今後いろいろお願いさせていただければと思います。ところで、研究分野との出会いはどのような感じだったのでしょうか。
そうですね、少し話が長くなるのですが、研究に本格的に興味を持ったのは大学4回生の後期(卒業研究発表会の直前)でした。私は、数学を志して京大理学部に入学したものの,大学で最初に直面した数学の授業は高校とは大きく違って、まるで哲学のようで、自分には全く肌に合いませんでした。京大理学部には細かな学科の区別が無く、数学以外にも物理・化学・生物・地学などの理科科目を何でも自由に学べたことに救われ、1・2回生の時には様々な科目を受講しました。浪人生の時に既にテクノロジー分野にも感化されていたことと,大学では力学や電磁気学等の物理学の方が高校時に想定していた数学のイメージに近かったこともあり、数式で現象を演繹的に説明できる物理学に興味を持ち始めました。ですので、大学3回生からの系登録では、物理系を選びました。とはいえ、「物理学分野でこれを志したい!」という具体的な思いは全く何もなく、むしろ予備校で高校生に数学を教え講師仲間たちと夜の京都を飲み歩く日々に明け暮れてしまっていましたね(笑)。その中で大学4回生に進学するタイミングで研究室配属先の選択を迫られました。理学部が開催する物理系の4年生向け進学ガイダンスに参加する際に,プログラムを見て衝撃が走りました。研究室紹介の教員一覧の中に『田中耕一』という文字があり、「あの2002年のノーベル化学賞受賞者の特別講演があるのか!」と勝手に勘違いをして大興奮してワクワクしながら前列に座って説明会に参加しました。ですが、研究室紹介で実際に現れたのは小柄な『田中耕一』博士ではなく山男のように大柄な『田中耕一"郎"』という一文字余計な文字がついた全く別人の教授で、非常にショッキングでした。『郎』の文字を見落としていたことに気が付いてガッカリし、期待していた人とは全く異なる別人が『ノーベル賞の質量分析』とは無関係の『光物性物理学』の研究プレゼンをされる事に何も期待をしていなかったのですが、田中耕一郎先生のプレゼンがいざ始まると、3回生で単位を取得していなかった学生にも分かりやすい語り口で研究内容の説明がなされ感銘を受けました。非専門家には難しくてほとんど理解不能だと思っていた物理学研究のインパクトがビシビシと伝わってきました。更に、多くの先生のガイダンスがご自身の研究トピックをただ列挙して専門用語連発で淡々と説明されるだけだったのに対して、田中先生は非常に熱く物理教育に対するご自身の思いや研究室生活の様子,更には学生のキャリアアップに対するお考え等も語って下さりとても感動しました。また、レーザー光を使った実験研究が何となくスタイリッシュに感じ、そのような実験研究でも数式を使ってロジカルに学理を極めていく研究スタイルが何となくカッコいいと思い、そして極めつけは先生の明るくて豪快なキャラクターと自分は何となく相性が良さそうだなどと勝手に妄想し、田中耕一郎先生の研究室を選びました。
[田中先生との一枚] |
とはいうものの、4回生になってから手品(所謂クロースアップマジックとステージマジック)にも興味を持ってしまい、なぜか4回生からマジックサークルに通い始めてしまったんです。2006年の春のことですね。普通は4回生になるとサークルを引退することが多いので友人達にはビックリされましたけどね(笑)。ですので、研究室で週に一回あった固体物理学のテキストの輪読会にはちゃんと参加していましたが、実験自体には全く着手していなかったんですよ。実は、田中先生のところで研究テーマが面白いと思うようになったのは冬になってからで、それまではほとんど卒業研究をせず、塾のバイトとサークルに打ち込んでいました。そして、就職を全く考えていなかったため、大学院入試を選びました。「まだ何も将来を考えられへんねやったら、とりあえず大学院に進学しておいて今後の人生の選択を2年先延ばししたらええやん」という同期の学生の一言が決め手になりました。でも京大理学系研究科の物理学の試験はかなり難しくて、問題文は日本語で書かれていても内容がほとんど理解できず、とても合格できるとは思えなかったんです。それで他の進学先を考えている中で、ずっと京都にいたので東京に住んでみたいという思いが強くなり、「よし、大学院は東京大学にいこう!」と決意しました。先生の薦めで東大の物理工学専攻で光物理学を研究していらっしゃった五神真先生(現在の東大総長)を紹介してもらい研究室を見学させてもらいました。物理工学専攻の過去の試験問題を見たところ、何とか日本語を読解できそうな印象を持ったので、受験は東大物理工学専攻一本に絞りました。ですが、やはり当時の自分はまだ物理学の勉強が足りず、第1志望の五神研究室は当然のこと、第2志望の研究室にも落ちてしまいました。なんとか、第3志望として研究室名を記載していた福谷研究室に合格したのですが、この福谷研究室は、実は進学パンフレットの説明に記載されていた『表面』や『水素分子』という何となく聞いたことがありそうなキーワードが並んでいたので入試願書に適当に名前を書いただけの研究室でした。ですので、本当に福谷研に進学するのがいいのかしばらく迷いました。そうしている中で、五神先生と再度直接お話しする機会があり「福谷先生は学問に対して真摯で性格も良い方だから、杉本君のことは絶対に受け入れてくれる。福谷研に進学した方が良いよ!」と温かく背中を押して頂きました。
――そこで表面科学と出会われたのですね。
そうです。大学院の願書提出時は表面科学については学術的には完全に無知でしたので、福谷研に入学してから表面科学と出会いました。結果的に、大学院の福谷研で表面科学を研究するということに対して、田中研での卒業研究で取り組んだテーマとの良い対比関係があることに後から気が付きました。
京大の田中研究室ではバルク、つまり固体物質内部の物性をレーザー光を使って研究していました。4回生秋の大学祭(通称NF)でクロースアップマジックとステージマジックの舞台披露が終わった12月以降は手品サークルを辞め、大学を無事に卒業して"憧れの東京生活"を送るために、これまで完全に手が止まっていた卒業研究にめちゃくちゃ取り組みました。先輩からは論文を読めと何度も言われていましたが、自分は論文を全く読まずに先輩にお膳立てしてもらった実験をひたすら行い、データ解析をしていました。自分にとって不思議に思える一連の実験結果を得ることができ、それに対して独自の妄想で物理的解釈を与えて大学院生の先輩に披露したところ、その解釈・考え方は既に論文で数年前に報告されている事を知らされました。多少はガッカリもしましたが、それよりも「我流で導いた自分の解釈は正しかった!3回生の時に真面目に物理の専門科目を勉強をしていなかっただけで、実は本気を出せば物理学者としていけるんじゃないか?」という自信を持ちました。さらに、過去の研究者の営みと考察を今の自分が継承することができる『論文』を読むという行為が最先端を切り拓く研究者にとってどれだけ重要な営みであるのかを真に身を持って実感できたのがとても大きかったです。また、研究成果を人類の英知として未来に伝えることができる『論文』という媒体の偉大さを身をもって知り、「自分も未来に残る偉大な研究をして、論文を後世に残して人類の知の構築に貢献したい!」という思いが沸々と湧いてきました。このように、4回生最後の3カ月で猛烈に物理学研究に目覚めてしまいまして、田中研でのバルクの固体物性の研究に本格的にのめり込みかけていた矢先に春になってしまい、東京に引っ越す日がやってきてしまったので研究が終了となりました。卒業発表会後も田中研に泊まり込みながら研究を続けているほど研究に没頭していたため、この春の段階ではもはや"東京生活へのあこがれ"自体はほとんど消えており、むしろ次の研究にかける思いが心の内側から湧き出てきていました。確かに全く知らない第3志望の福谷研究室だけれども,自分を拾って頂けたことで贅沢な環境で研究活動を続ける機会が得られたので、「この貴重なチャンスを活かさない手は無い!」という思いで福谷研究室に飛び込みました。
というような経緯で、2007年4月から福谷研で表面物理学の研究を開始すると、田中研で培ったバルク(固体内部の)物理学が全然通用しなかったんですよ。たとえ同じ物質でも、内部と表面では、構造も性質も全然違ってしまうというカルチャーショックを受けました。ですが、そこが表面科学の奥深くて面白いところで、大学院進学後にあっという間にこの分野に惹かれて、修士1年生の6月の時点でこの分野でドクターに進学しようと決意しました。結果的に、まず最初にバルクの物理に興味を持ち、その後に表面の物理を志すという当時は(今も?)稀有な分野転向が偶然実現したんですね。
[福谷先生との一枚] 2012年2月某日に、福谷克之先生と共に実験装置(色素レーザー)の前で撮影した写真。直接研究指導していた写真中央の学生が第一回サイエンスインカレに出場し、文部科学大臣表彰を受賞したことを受け撮影した記念写真です。京都大学の助教に転出する直前の一枚で、彼の受賞は研究教育をこれから担う事に対しての自信に繋がりました。 |
――研究者になろうと思われたのはその時期だったのですね。ところで就活して企業に就職してサラリーマンになって、というお話が出てきませんが、その発想は、あまりなかったのですか。
全くなかったですね。私は高校で父が他界し母子家庭に育ったので、お金を稼ぐ必要はありました。でも大学時代から塾講師などのアルバイトをして、4回生の段階では毎月25万円くらいは自力で稼いでいましたので、多くの学生が抱く所謂「社会人になってお金を稼ぎたい!」という憧れは感じなかったんです。「お金はどうにでもなる」と既に思えていたので、自分は何に没頭するべきかを考えていました。今思うと、塾のバイトや手品サークルに没頭していたのは、単に学業をサボっていたのではなく、自分が夢中になれるものをひたすら探していたのだなと。大学での学部生向けの大人数相手の授業などでは、先生との関係も薄く、師弟関係のようなものはなかなか結ばれなかったので、ちょうどその時期に学問として打ち込みたいものに出会えずくすぶっていたわけです。その中で、田中先生や福谷先生をはじめとした恩師との出会いがあり、そこから一気に研究にのめり込んでいったわけです。
詳細はまた後で少し触れようと思いますが、大学院では固体の表面に吸着した水素分子の研究を行っていました。博士課程の後半では、水素分子の研究をする中で、水素分子に酸素が1つくっついただけの水分子が水素分子とは全く異なる性質を持ち、それが固体表面上で実に面白い吸着特性を示す起源になっていることを知りました。そうしたことから、博士課程を卒業する頃には固体表面上の水分子の研究に興味を持ち始めていて,日本学術振興会の特別研究員(DC2)に応募して採択の内定をもらうこともできました。2010年の秋のことですね。その学振内定の連絡直後のタイミングで、表面界面スペクトロスコピーという研究会に初めて参加してみたのですが、そこで京都大学の理学研究科化学専攻の松本吉泰教授に出会い、お酒を飲みながら今後の研究内容や展開を話したところすっかり意気投合してしまいました。偶然にも、2011年の春頃から、その松本研究室で固体表面上の分子系のレーザー分光研究を担う助教の公募が始まっていたようなのですが、その頃には自分は早く博士の学位を取得して学振DC2をPDに切り替え、その研究テーマを博士研究員として福谷研で遂行する事に心が躍っていましたので、松本研の助教のポストについては当初は全くの無関心でした。2011年8月9日の博士論文公聴会の直後に福谷先生から、「松本研の助教公募に出してみたら?」という後押しがあり、8月末の公募〆切の直前だったのですが、固体表面上の水分子が本質的に重要な役割を担う『光触媒』の研究テーマを構想し期日に間に合わせてなんとか応募することができました。この松本研の助教に採択されたおかげで、現在の分子研での研究の基礎的アイデアにつながる固体表面上の水分子の種々の分光研究にのめり込むことができました。松本先生と学会で出会って話していなければ、たとえ指導教員から薦められても京大松本研の助教公募には応募していなかったことは確実で、そうなると今の分子研での杉本グループや研究アイデアは世に存在しなかったですね!